母校支援

第一学生寮の青春

Cブロック25号室

NHKBSで放送されている「心に沁みる夜汽車」の様なシーンがあったのは、1982年(昭和57年)4月のできごとであった。

友人に見送られ、1ボックス4人掛けで、上段と下段のカーテンを引けば夫々の個室に様変わりする【寝台特急出雲】に乗り、既に乗車していた新社会人、2人の新大学生と相席になった。

皆が、新天地に対する希望と不安を口にし、ちょっとした高揚感に包まれ就寝した。翌朝、東京駅でお互いの健勝を祈り合い、私は、東上線で鶴ヶ島駅に向かい、快晴の下、大学構内を歩き、見事なまでに咲き誇った桜の並木の奥に建つ第一学生寮に着いた。

“Cブロック25号室”と告げられ、恐る恐る二階廊下を通り入室した。そこには後に一級建築士になった莫逆の友秋葉がいた。またあの夜汽車に同席し一夜を共にした3名は、今はどうしているだろか?そんなこともふと思い出す年齢になった私の青春を、今語ろうと思う。

本寮は、鉄筋コンクリート造り3階建て1室2名で、各部屋に、簡素な備え付けの机、本棚、畳敷きのベット、木製の整理ダンスとロッカーが一組ずつ両サイドに置かれ、風呂、トイレ、洗面、調理場、冷蔵庫、洗濯機は共同であった。1ブロック20名、A〜Eブロックの5ブロックで区分けされ、上級生20名を含む総勢約100名の工学部に在籍する地方出身者のみで構成されていた。

最初の行事は、校歌、寮歌、工学部歌、応援歌の暗唱で、ブロック毎全員が、廊下に整列させられ、4曲を徹底的に覚え込まされた。間違ったり詰まったりすると、連帯責任で全員が正座させられた。最終試験では、屋上に整列させられ、音程は関係なく、一人ずつ大声を張り上げて歌わされた。

誰かが失敗すると、再び一人目から繰り返される再試験が待っていたか、幸い皆が成功した。最後は素直に喜び合い、Cブロックの一体感が生まれた様であった。その後の行事の締め括りには肩を組み皆で歌い、「富士を見晴らす武蔵野」で、晩秋の頃には歌う度に物寂しさを感じて行くようになった。今でもこの4曲は友とならば共に歌える。

ブロック宴会

飲み会はほぼ毎日、ブロック毎の宴会は月2,3回のペースで開催された。“土はよく吸う”との同室秋葉のアドバイスで、屋外の宴会では、どこで調達したのかわからない薄汚れた白色どんぶりに並々と注がれた酒を、少し口を付けては酔っ払った振りをして、そのまま地面に流した。

寮内ホールであった屋内の宴会では、地面ではなく胃に流し込むことしかできず、決まって必ず酔い潰された。何れの場合でも、最後は、大鍋の煮物が残り、一升瓶と共に全てが散らかった。翌日には、寮外周に立つ木々の根周辺に多数の穴を掘り、残飯を埋めた。数十年間に渡り同じ作業が繰り返されてきたことを思えば、樹木が青々とした葉を茂らせ、一際大きい害虫が飛来してくることも妙に納得できた。

根性試しと騎馬戦

隣接する坂戸、毛呂山などの人里離れた場所に夜間放置され帰寮、という根性試しも忘れ難い。“川越は中心なので海を背にして走れば辿り着く”と何事もなく言い渡され、秋葉が“ひどい話だ”と呟いた一言も忘れられない。緊急時の電話代10円だけ持たされ、Cブロック員は、夕暮れ時に坂戸駅で下車し、後帰りできぬよう街灯や民家のない侘しい林道や小道を黙々と行進させられ、5分歩いては一人、5分歩いては一人と見知らぬ土地の闇に放たれた。

心細くなった私は、月明かりを頼りに当ても無く走り、やがて薄明りの灯った一軒の農家に辿り着き、助けを求めた。家中の人が心配そうに地図を見つめ、“車で送ろうか”という申し出を“自力で帰れ”と命ぜられ完全に洗脳されていたため、その好意を断った。

ただ、書き記してもらった地図を頼りに、何とか日付が変わらぬうちに戻ったが、中には翌日の昼頃になっても帰らぬ者がいた。交番から彼の引き取りの電話があったことには安堵し、そこが更に遠方になる寄居方面の交番であったことには驚愕し、極めつけは、お礼として10円を差し出した振舞いに大爆笑した。

秋には全学の体育祭があった。前日には前夜祭があり、川越アーケード通りを各サークルが仮装して練り歩き、本ブロックは、法被にふんどし姿で神輿を担いだ。当日は“第一学生寮はそもそも一つの部であり体育会なのである”と取って付けた様な説明で、全員が4人1組の騎馬戦に参加させられた。

体育会一部の野球部、相撲部、柔道部、ラグビー部などセミプロもいる中で“突っ込めー”との号令で、訳もわからず突進した。当然ながら即座に引きずり降ろされたが、ある1組が腕を負傷しながらも勇敢に戦い、“寮生の鏡である”と褒め称えられていた。その真剣な眼差しには、もはや唯々笑うしかなかった。

寮祭と寮碑

工学祭と同じ日程で寮祭もあった。過去から大人数で多数の本格的な出し物を製作してきたこともあり高評価を得ていた。人気があったお化け屋敷は、ストーリー仕立てで役者も配置し、手加減なく怖がらせたため、泣き出す子供たちも大勢で母親たちを困惑させていた。

畑山が中心になり、“ヨッテリア”なる派手な看板を作成して注目を浴び、全ての飲食物を早々に完売させたことには少し驚き、経営学部への鞍替えを勧めてみたりもした。皆が持ち寄った郷土の置物やペナントなども即完売していた。

本寮は、安費なためか翌期には閉じ、跡には逆行列計算が得意な吉田が主になって建てた石碑だけが残った。石碑には「寮碑・第一学生寮自治会」とのみ刻まれている。

教師になった小神は、50才を過ぎて上昇志向を諦めたのか都合よく休暇を取り始め、毎年、北海道スキーに行くようになった。昨年には、30年以上前の結婚式に出席した氷見市の田畑を2人で訪ね、温泉に入りながら寮生活のことで話が盛り上がった。上記エゴドキュメント通り、既に懐かしく、記憶に残る思い出になっていた。

重電からコンクリートへ

暗闇で見た雲中の雷光に、恐怖や畏怖の念を抱き、次第に神秘的で不思議な様子に興味を持つようになり、日高先生の電力研、加藤先生の高電圧研で放電現象の指導を受けた。1986年(昭和61年)重電メーカーに就職し、組織変更がある度に、五反田、大崎、日本橋と事務所を移ったが、一貫して避雷器、発電機、変圧器、遮断器など電気工作物の絶縁設計に携わった。

電気学会の参加などで加藤先生にも出会い、ありがたい言葉もかけてもらった。1998年(平成10年)に帰郷し、両親が創業したコンクリート製造会社を継ぎ、興味も原材料になる岩石の種類や成り立ちに変わったが、恩師の研究に対する真摯な姿勢は深く心に刻まれている。

コンクリートには「自由な形のものが作れる」、「耐火的である」、「耐久性に富
む」、「圧縮に対する抵抗性が大きい」などの利点がある。私がそのコンクリートの世界に入り25年が経つ。恩師から教わった学徒としての真摯な姿勢は、対象がコンクリートに変わったとしても持ちつつづける様にしている。

寮の青春は続く

最近では、医、薬の道に進む子供たちに集団生活の楽しさや面白さを話し、入寮を奨めてみたが“馴染めない”“共同トイレは無理”“関係が拗れる”など負のイメージを連呼してきた。しかし、話をすれば自分自身の学生時代と殆ど変らず、成長を見守りながら忠告し続けてくれた両親と同じことを子供たちに語り継いでいる。

“禍福は糾える縄の如し“、禅語に”直心是道“という言葉がある。感謝の気持ちを持って、チャンスの時は油断なく挑戦し、ピンチの時には真摯に取り組めば、自ずと道が開ける。

川越も周囲にこじゃれた学生マンションが多数つくられ、80年代の風情は無いと聞く。大学構内は16の建造物と3つのスポーツ練習場ができ、あの時代の面影は無い。

しかし、工学部歌「白亜を仰ぎ集う者、秩父の峰を尊うとしてー学びて集う若人」の伝統は失われていないし、「第一学生寮の青春」は輝き続けるだろう。

竹内 伸貴
1986年(昭和61年)工学部卒業
松江市在住

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