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「テレビ局転勤物語」

テレビ局人生は、タモリと豪雨から始まった

私は1983年(昭和58年)3月に東洋大学経済学部を卒業し、一年間、東京のフジテレビで働いた後、松江市に本社を置く山陰中央テレビに就職するため、出身地である出雲市に帰って来ました。それから今日に至るまでの約40年間、同じ会社で働き続けて参りました。

しかし、地元の会社に就職しながら、その社会人生活の大半を島根県外(主に東京)で勤務するという会社の中でも特殊な経歴を歩む事となりました。私がテレビの世界に入社した年1983年はどんな時代だったか、このメッセ―ジを書くにあたり、記憶の引き出しを開けてみました。

フジテレビでは、前年の1982年から『森田一義アワー笑っていいとも』がスタートし、徐々に人気を獲得し長寿番組になった年でした。

1980年代タモリ・たけし・さんまのバラエティ番組は、テレビの新しい時代の幕開けでした。私が卒業後の進路を新聞ではなく、テレビを選んだ理由の一つであったのかもしれません。また、この年は、故郷島根では、今でも島根県の豪雨災害として語られる、「昭和58年7月島根県西部豪雨」の年でした。画面を通じて報道のリアリティーを実感した年の入社でした。

時は巡り、昨年の2022年(令和4年)4月、計3度の東京支社勤務、13年間の単身赴任生活を終えて、自宅のある松江市へ帰って参りました。既に2人の子供は県外で就職しており、現在は久しぶりに家内と2人での生活を送っています。

ロッキード取材の思い出

さて、最初に戻ります。現在、勤めています会社に就職する事を前提に特別な計らいもあり「研修」目的で、大学卒業後直ぐに東京のフジテレビに入りました。報道センターに所属し、主に報道のテレビカメラとVTR編集の基礎を学びました。また、国会の記者クラブにも所属させて頂き、国会記者会館にも常駐させて頂きました。

1年と言う短い期間ではありましたが、ローカル局で報道記者が担当する全ての業務(東京キー局ではカメラマン、記者、ニュース編集は、それぞれ別の担当者が行う分業制)の基本的な事について学ばせて頂きました。

専門的な話になりますが、当時、テレビカメラで撮る映像は3/4インチのVTRテープに収録されるため、ケーブルで繋がれたVTRデッキを担ぐVEと呼ばれる技術のメンバーと行動を共にしていました。しかし、丁度この頃からテレビカメラに1/2インチカセットテープを直接収める事の出来るカメラ、VTR一体型の機器が誕生したため、1人で自由に動き回る事の出来るカメラマンの機動力が一気に増した事を思い出します。

在職中、世間を騒がせた出来事として、田中角栄元総理の「ロッキード事件」の一審判決が東京地方裁判所から下される年でもありました。テレビ、新聞のマスコミ各社は、判決が下される瞬間はもちろんの事、それよりも随分と前から東京・目白の田中邸に出入りする田中派の幹部、自民党の要人の様子をカメラに収めようと自宅正門前の道路を挟んだ向かい側の歩道に各社が高い脚立を置き、その上からカメラで邸宅内の様子を一日中、見張っていた事を思い出します。

また、流石に東京キー局とあって、報道局フロアには全国ニュースに出る著名なキャスターの姿や時には局内の喫茶店や廊下等で芸能人の姿を見掛ける事もありました。そんな一見、華やかな職場での一年間の研修を終えて1984年(昭和59年)4月、島根県へ帰って参りました。

生体肝移植手術取材の思い出

当初は、実家のある出雲市に住み込み、会社のある松江市には車で通勤していました。最初の配属先は制作報道部で当然、東京で1年研修を受けてきた報道担当だと思っていましたが、上司から言われたのは制作担当でした。

という事で主に番組のディレクターとして番組を作ったり、カメラマンとして番組の撮影や番組中継のカメラ、番組編集の業務に携わっていました。

その後、3年半経って希望していた報道に担務替えとなり報道記者として事件・事故と言ったニュース取材や時には災害現場からリポートなども行いました。
記者生活の中でも特に印象に残っているのが1989年(平成元年)、出雲市の島根医科大学(現在の島根大学医学部付属病院)で行われた「生体肝移植手術」です。

先天性胆道閉鎖症の赤ちゃんに父親の肝臓の一部を移植する手術で、日本で初めて行われた移植手術である事から全国から大変な注目を集めました。

残念ながら移植を受けた赤ちゃんは退院することなく、手術から9カ月で亡くなりましたが当時、脳死者からの移植が出来ない日本国内においては、移植を受けたい人は高いお金を支払って、海外で移植手術を受けるしか命が助かる道が無かった訳です。

よって、今回の移植手術をきっかけに様々な議論が沸き起こり、その後の移植医療が急速に進む大きな一歩なりました。生体肝移植の一報はNHKがスクープし、NHKはもちろん、その後朝日・読売と言った全国紙は東京の本社から生命科学部等に所属する専門チームが派遣されるなど、そのニュースの重大さに驚かされました。

我々も系列のキー局から一時、専門の応援がありましたが僅かな日数の滞在でいなくなりました。世紀の移植手術から赤ちゃんが亡くなるまでを全く専門外の(ローカルテレビ局に特に専門がある訳ではないですが、それまでの主な担当は事件・事故を中心とした警察担当でした。)私が担当する事となり毎日、島根医科大学付属病院に詰めて、現場からニュース原稿を本社に送ったり、術後の一進一退の様子をテレビ中継でリポートさせて頂きました。

そして時には当時、キー局のキャスターだった安藤優子さんとも掛け合いを行い、全国中継の夕方のニュースにも生出演させて頂きました。

営業部門への異動と転勤生活

そのようなテレビ局らしい表舞台の報道記者も何故か3年半と言う短い期間で終了となり一転、1991年(平成3年)3月、30歳の時に営業へ行く内示を受けました。報道一筋、これからも頑張ろうと思っていた矢先の辞令で、まさに青天の霹靂とはこういうことなのだろうと強く感じたのを今でも覚えています。それからは、冒頭に触れましたように転勤生活の始まりです。

お隣の鳥取県鳥取市に在ります鳥取支社勤務が3年。本社勤務時に知り合った家内と赴任一年目に結婚。そして、生まれて5カ月の長男を連れて東京支社へ転勤、東京で次男が生まれてトータル8年、長男が2年生、次男が小学校に入るタイミングで広島支社へ異動し、丸4年間勤務。そして本社への異動が出て実に15年振りに松江の本社に帰る事となりました。

仕事はそれまで支社での外勤営業から営業のサポートを中心に行う管理業務となりました。松江に帰りこれから当分、転勤はないだろうと一年後に松江市内に自宅を購入、それから2年経過し、子供は長男が中学3年、次男が中学1年生となり、これから腰を据えて将来設計をしようと考えていた矢先、再び東京支社への異動が発令されました。

それからは家内と二人の中学生を松江に残し、東京支社5年、大阪支社2年、再び東京支社6年と13年間の単身赴任生活が始まりました。

途中、二人の息子が東京の大学に進学した事も有り、正確に言いますと一時的に男三人共同生活の時も有りました。松江の自宅に家内一人を残しながら、東京の単身赴任先で親子3人が生活するという、そんな微妙な家族関係も経験しながら結局、計8回の転勤、転居は計11回を数え、昨年の4月に15年前の本社勤務時に購入し、実質2年間しか住んでいないマイホームに帰って来た訳です。

転勤が宝物をうみだした40年

振り返ってみますと何となく「サラリーマン人生、自分の居場所はどこだったのかなぁ。」と考えさせられます。地元に就職しながら、30歳以降は地域の方とも殆ど関わらず過ごして参りました。地域のイベントに参加する事も無く、自治会等のお世話もせず、仕事での繋がりも殆どなく、そう言った暮らしを30年間過ごして来ました。

その間、年2回程度の里帰りや単身赴任中に両親を亡くし、時々帰る出雲の風景だけが大きく変化している事に気が付きました。高校まで過ごした出雲の街の記憶が区画整理によって出来た新しい道路や建物によって全く思い出せないほどに変わっていました。自分の生まれ育った出雲市、高校まで過ごし、就職で帰って来た故郷。自分にとって故郷とは何だったのだろうか。今も答えが見つかりません。

さて、稀な経歴を重ねながらも大きな財産を一つだけ手に入れることが出来ました。それは人との新たな出会いと繋がりです。

お陰様で東京、大阪、広島の勤務先では東京キー局の方はもちろん、全国の地方テレビ局の方と知り合う事が出来ました。また仕事では、名前を聞けば誰でも知っている超有名スポンサーの方々、大手広告代理店の方達とお付き合いする事が出来ました。また、赴任先の住居があった近所の方とは今も家族でお付き合いしている方が大勢います。全国津々浦々に知り合いが出来、友達が出来た事が人生の一番の宝物となった事は言うまでもございません。

「他人に迷惑をかけない」事を座右の銘とし、多くの方に助けられ、支えられてここまで来ることが出来た人生、本当に出会った全ての皆様に感謝の気持ちを捧げたいと思います。そして多分、この先転勤はもう無いと思いますので、これからの人生、少しづつ故郷への恩返しが出来ればと思っているところです。

最後に東洋大学の現役の学生の皆さんに送りたいエールが有ります。

「若い内に様々な事に挑戦し経験を積んで頂きたい。人は常に経験から学び、新しい発見や、成長をしてきました。多くの失敗や、試行錯誤加を重ねる事で次への道が開けます。失敗を恐れず、常に挑戦する気持ちを持ち続けてください。」

森山 達也
1983年(昭和58年)
経済学部経済学科卒業
松江市国屋町在住

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