母校支援

漫画からアニメへその先覚をなす

体育実技の「花笠音頭」でプッツン!

今から63年前の1960(昭和35)年、私は社会学部応用社会学科に入学した。しかし、一年生の必修科目である体育の授業には参った。いきなり実技で『花笠音頭』(山形民謡)を踊らされた。音楽に合わせて、「あら、えっさっさ~」と踊るのだ。いい年をして、花笠を持っての踊りは、伝統を誇る質実剛健の男子校出身の私にとっては屈辱であった。

場所も、この年完成した埼玉県川越の工学部(注1)のグラウンドを利用した。おかげで、川越に行く時は午前中の講義は受けられなかった。(注1)工学部の第一期生は翌年の1962(昭和37)年4月入学。

雨の日は、白山校舎にグラウンドが無いので、大講堂の中の通路を利用して踊った。これで体育の授業が嫌になり、殆ど欠席した。そのため、出席日数が足りず、単位が取れない。進学が出来ない。

クラスメートと校庭で(中央が筆者) 1960(昭和35)年

困って、先輩OBに紹介された、大学学生部の愛澤恒雄部長に相談に行った。今ではとても考えられないが、部長は「酒でも持って、担任の先生にお願いに行け!」と言う。エッ!?と思いながら、酒を持参して頭を下げて懇願した。体育の先生は、補習授業として夏に『水泳教室』(注2)を開くので、参加すれば良いというご託宣。これに7日間参加して、二年生への進学が出来た。(注2)当時は千葉県富津市に大学の寮が有り、合宿が出来た。

このとき、富津で補習授業を受けた学生が30人以上いたのにはビックリ。幼稚園じゃあるまいし、アカデミックな大学で『花笠音頭』とは、恐れ入谷の鬼子母神である。この一件で、大学に対する期待感が萎んでしまった。この体育授業、今はどうなっているのだろうか。

肩身が狭かった学生運動

大学に入ったが、外は『60年安保闘争』で騒がしかった。当初、安保改定に対する国民の関心は決して高くはなかった。それが激しく燃え上がったのは、5月20日未明の強行採決からである。国民の多くは、岸信介首相の政治姿勢に“民主主義の危機”を感じたー。私も、先輩に誘われて、安保反対のデモにも参加した。しかし、このデモ参加、容易では無かった。当時、学校側は校庭で民主主義を唱える集会等を規制した。

そのため、参加者を個別に勧誘し、安保の勉強会は校門前のそば屋やの2階で開いた。参加者を募るために、夜遅くまで知人の下宿でガリ版印刷をし、学校でこっそりチラシを手渡して歩いたことを思い出す。デモの参加者は、大学に隣接する白山神社境内に集まり、『東洋大学民主主義を守る会』の大旗を掲げて行進した。

学生の溜まり場であった、明るい歌声喫茶も安保闘争中は、皆が疲れ切った身体で集まった。
新宿 『灯』1961(昭和36)年

デモ隊は日比谷公園に集合し、国会議事堂、議員会館等を通り、新橋駅横の土橋が解散地だった。銀座で都電を止め、道いっぱいに手を繋いで歩く、フランス式デモも経験した。

強権政治への反発、脅かされる主権。安保反対の声には、多くの市民、主婦、学生が加わった。戦後最大の民意のうねりとして、6月15日、全国で630万人がデモで抗議、国会議事堂前では東大生・樺美智子さんの死亡事件まで起きた。しかし、そうした声も届かず、6月19日午前0時、新安保条約が参議院の議決を経ぬまま自然成立。この安保闘争で学者、学生、市民は挫折感を味わった。

この時期、井上円了先生の「諸学の基礎は哲学にあり」の教えで、「物の見方、考え方」の基礎哲学を猛勉強した。今考えると、この時の勉強が終生、私の思考の基礎になっている。

『東洋大学民主主義を守る会』メンバー 1961(昭和36)年11月

 

政治不信で学生も混乱!

1961(昭和36)年12月、世間を騒がせた『三無事件』が起きた。クーデター未遂事件である。元・川南工業社長・川南豊作(59歳)を中心とした、旧軍人、学生ら34人が、警視庁公安部に逮捕された。彼らは国会を占領し、国家革命を図っていた。

彼らは、60年安保闘争などの勢いから、共産革命への危機感と、政治に対する不満を抱き、首相を始めとする、政府要人の暗殺も計画していた。驚いたのは、東洋大学の学生数名が、行動隊として、山中で戦闘の特別訓練を受けていたというニュースである。

当時、東洋大学には、それほど右翼思想の人が多かった。お正月の皇居一般参賀には、大学応援部が団旗を立てて(注3)、嬉々として参加していた程だから。
(注3)現在、一般参賀での登り旗は禁止になっている。

こうした校風や一連の事件で、大学を辞めようと思った人も多かった。ある一年後輩の女性は、女子校を卒業し社会学部図書館学コースに入学した。学校が怖くて転校しようかと悩んだが、図書館学を教える大学が他に無かったので留まった。

こうした話などを聞き、私は推されて社会学部自治会委員長になり、他の仲間と既成事実を作って学園の民主化・改革化を迫った。今ではアカデミックな学校も昔にはそうした先人たちの歴史も有った。

大学正面外観、右側の建物は大学図書館 1960(昭和35)年

漫画からアニメへその先覚をなす

今、世間ではちょっとしたアニメブームが起きている。実は、そうした社会現象を生み出す一翼を担っていたのが私たちであった。私が東映に入社した1964(昭和39)年当時は、まだ漫画と呼ばれていた。アニメという言葉は、アニメーション(動画)の略称で日本の造語である。その名付け親は日本コロムビア学芸販売課で宣伝担当をしていた大槻孝造であった。

当時、コロムビアがテレビ漫画の主題歌を独占販売していたが、レコード購入層が高校、大学生と広がっていくので、漫画では買いにくかろうと、大槻は一瞬の思い付きでアニメという言葉を作った。

1977(昭和52)年11月、日本橋三越で、『科学忍者隊ガッチャマン』のアルバムを発売する際、『テレビまんがコーナー』と『アニメコーナー』に分けて販売してみた。ファンが飛びついたのは『アニメコーナー』。持ち込んだ商品は、アッという間に売れた。これにはコロムビアも驚いた。以後、コロムビアは全国のレコード店にアニメコーナーを作り、一般化させていった。

そうした動きがあった年の春、東映にテレビ版を再編集した『宇宙戦艦ヤマト』の上映依頼が来た。当初、上映は『東映パラス』系の10館程度の予定だったが、8月6日公開の話が伝わると、何故かラジオ中心に若者の間で話題になり最終的には48館まで拡大された。

この頃、漫画映画は東映の独壇場で、私も宣伝を担当していた。しかし、一度放送された漫画作品ということもあり、宣伝部ではヒットの秘策を練りに練った。

まず、広告ビジュアルを1点に絞り込む。主題歌を徹底して売り込む。全国のマス・コミ媒体を最大限に活用する。そのためプロデユーサー西崎義展、歌手・佐々木功、声優・富山敬、麻上洋子を連れて地方で記者会見やイベントキャンペーンを行い、全国媒体に記事を広げた。更に劇場窓口では、前売り券に特典としてポスターまで付けた。

『宇宙戦艦ヤマト』ポスター 1977(昭和56年)公開(掲載許可済)

これらが功を奏して、封切り数日前から、寝袋持参の若者たちが劇場前に列を作った。マス・コミはこの行列を大きく取り上げた。膨らんで行くファンを心配して劇場側は午前4時に上映を開始し、他館も開いた。これには、やくざ映画で深夜興行に慣れている劇場もビックリ。早朝興行は始めての経験だった。さらに驚いたのは、パンフレットやキャラクターが売れに売れ、興行収入を上回る勢いだった。

『宇宙戦艦ヤマト』はその年の日本映画興行収入ベスト・テン9位に入り、アニメは商売になると踏んだ会社は、翌年の1978(昭和53)年、続編『さらば宇宙戦艦ヤマト』を公開し、日本映画興行収入ベスト・テン2位を獲得した。

1979(昭和54)年公開の『銀河鉄道999』では、さらに宣伝をパワーアップさせ、国鉄(現JR)と地元ラジオ局がタイアップして、『ミステリー列車・銀河鉄道999』を全国に走らせた。また、主題歌も厳選して製作。ゴダイゴが歌う『銀河鉄道999』も流行りに流行った。

勿論、原作・松本零士を徹底的に売り、媒体に露出させた。その効果で『銀河鉄道999』は、ちょっとした社会現象になり、ついにこの年の日本映画興行収入ベスト・テン1位に躍り出た。野球で言えば満塁ホームランの大ヒットである。

これにより、原作者・松本零士が認知され、子供のものとされていたアニメが、中学・高校生から青年層まで広がり、アニメブームが到来した。これ以降、『機動戦士ガンダム』などがベスト・テンに顔を出すようになった。アニメが更に力をつけたのは1989(平成元)年『魔女の宅急便』が日本映画興行収入ベスト・テン1位になってからである。

こうしたアニメブームの社会現象を起こしたのは、時代の流れがそうだったとは言え、時流を捉えた私たちのたゆまぬ努力と仕掛けが有ったことは言うまでもない。就職もそうだった。

当時、東洋大学の求人票にはマス・コミ関係の会社はゼロ。私たち社会学部第二期生のクラスメートが毎日新聞、スポーツニッポン、ラジオ関東、日刊工業新聞、ビデオリサーチ、東映などに就職し、徐々にその窓口を開いて行った。

1964年卒業
社会学部応用社会学科卒業
西川 昭幸

カテゴリー