母校支援

「突然の連続が島根のアユにたどり着いた!」

突然・猛勉強し始めた

1974年(昭和49年)浜田高校3年生の秋、将来のことはとりあえず大学に行ってからゆっくり考えよう、といいかげんに思っていたのが大間違いでした。ことごとく大学入試に失敗して浪人する破目になったのですが、危機意識も持たず、だらだらと過ごしていた秋口、突然に将来の不安を覚え、それからというもの、入試までの数か月は私の人生で1回しかしなかった猛勉強。

なんとかいくつかの合格通知をもらい、得意のいいかげんさを発揮して、ここは花の東京に行って起業しようと思いました。時代の空気は、セブン・イレブンが江東区に一号店を出店し、全国展開をし始めた様にイケイケ的な雰囲気がありました。そして1976年(昭和51年)東洋大学法学部に入学金を収めました。いや、親に収めてもらいました。

東京での最初の住まいは、親戚の伝手で北区赤羽にある民家の2階を改装した4畳半と小さな流しだけの部屋で共同便所、風呂は銭湯という赤塚不二夫さん達が住んでいた「ときわ荘」的おんぼろアパートでした。そこから大学へは、赤羽線(現在の埼京線)で池袋駅へ、乗り換えて山手線で巣鴨駅へ、また乗り換えて地下鉄三田線で白山駅へ。特に通勤時間と重なる通学時の赤羽線は異常なラッシュでした。それでも1年、2年の頃は、できるだけ多くの単位を取ってやろうと、けっこう真面目に授業に出ていたように思います。

しかし、必須科目の体育は朝霞キャンパスだったので、よく寝坊して授業に間に合わないことが多く、出席日数不足で追試。英語もろくにできないのに第二外国語は仏語を選択し、これも追試。2年の夏休みを半分ムダにしてしまいました。ゼミは「日本経済の関連法」という内容だったと思いますが私を含めて数人が単位がとれそうもないことが発覚し、これはまずいと先生と懇親会を行い、忖度してもらいたいことは一切言わず、酔いにまかせて、皆でこれからの日本のあるべき姿などについて瞑想話を披露。

その甲斐あってか、先生から「君たちのような学生は希少生物だ」といたく感動(?)され、無事参加者全員が単位を頂きました。それ以外は、卒業までに必要な単位の多くを取得したのですが、自分が考えての受講したい科目というよりも、先輩や同級生たちの情報をかき集め、単位の取りやすい科目や先生ばかり選択したので当然といえば当然の結果でした。

突然・高額アルバイトを止めた

1978年(昭和53年) 3年生からは、専攻科目の時間割を工夫し、週に1~2回だけでの通学が可能になったのですが、これが大きな落とし穴でした。時間に余裕ができたことと、悪友達のせい(?)で、それまであまり興味のなかった酒の味を覚え、麻雀・競馬のギャンブルを覚え、さらに当時爆発的に流行したインベーダーゲームで喫茶店にも頻繁に通うようになりました。断っておきますが、当時は硬派を気取っていたので女性とは無縁でした。

結果として当然のことですが、仕送りだけでは生きていけなくなり、時給のいいアルバイトを探しては、お金稼ぎに精をだす日が増えていきました。色々なアルバイトをしましたが、その中でも夜中に行うビル掃除(スーパーや百貨店のフロアのワックスがけ)は辛かったのですが、夕食付で時給もよかったのでけっこう頑張りました。モップを使ったワックスがけはプロ並みだったと思います。

そんなバイト生活をしていた時、同郷の先輩から時給が1,200円から1,500円と超高額、しかも夜だけの雀荘店員のアルバイトを紹介され、様子見に行ったその日から働くことになりました。2023年度の平均最賃を1,000円にする、しないと言われている現在ですから、この1,500円がどれほど高かったことか。

友人との卒業記念(左端筆者)

しかし、この雀荘、極めてアブナイ雀荘で、卓数が3つしかなく、客層は某有名キャバレーの従業員やその友人、たまにテレビで見る女優さんや男優さん、自称自営業の社長さんたち、その筋の方たち等々でした。挙句の果てに、オーナーはのちに、ある事件を起こして新聞に載っていました。レートも含め、なにもかもが別世界で、最初の頃はパニックになっていました。

後でよく考えてみると、その当時はすでに一部の社会ではバブル経済の入り口の時代でした。時代を表す風景はいくつか思い出されます。池袋に60階建ての「サンシャイン60」が開館、ディスコブーム、原宿に「竹の子族」出現、歌はピンクレディーの「UFO」、大変お世話になった東洋水産の「赤いキツネ」がヒットの時代でした。「フィーバー」が流行語となりました。

そして、ガルブレイスの「不確実性の時代」がベストセラーとなります。後のバブル経済とその崩壊、失われた10年、新自由主義経済等の入り口でした。金銭フャーストの時代です。倫理観も薄れていきます。慣れというものは恐ろしいもので、次第に当たり前のような高額な金銭感覚に溶け込んでいく自分に何の違和感もなくなりました。

この雀荘での出来事は、一般社会とはかけはなれた世界でした。夜間営業違反で渋谷警察に出頭したり、反社の方に接客したりと、とんでもないことばかりだったのですが、いつの間にかお客さんからの可愛がられ、超高級飲食店に連れて行ってもらったりするまでになりました。

そんなこんなで、オーナーからこのまま店を任せるから勤めないかと、当時としては破格の額を提示されたりしたため、ずるずると就職活動というものをしないまま卒業を迎えてしまいました。このとき、またしても浪人した時と同じ様に、突然、このまま東京にいたら身を亡ぼす、東京でのこの生活や対人関係は私が目指したものではないと将来を不安に思い、卒業と同時に、就職のあてもないまま帰郷しました。卒業式全景(1980年3月)

突然・環境保健に目覚めた

1980年(昭和55年)帰郷してから就職活動しましたが、当然のことながら大学浪人の次は就職浪人でした。たまたま運よく臨時職員として働いた健康診断や水質検査等を行う公益財団法人島根県環境保健公社という機関に採用してもらい、それ以来43年もの長い間務めさせて頂きました。

公社は『予防医学活動を主軸として環境保健事業を推進し、島根県民の健康の増進と福祉の向上に寄与すること』を目的としています。バブルとは無縁で卒業後の43年間はこの文言を胸に刻んで生きてきたと思います。健康診断・環境検査・食品検査、それが私の全てでした。

最初は浜田支所での勤務でしたが、後半の10年間は松江での単身赴任生活でした。この駄文を読まれている方の中には、当公社の健康診断を受診して頂いた方もいらっしゃるかと思います。今思えばこんなに長く勤められたのも、大学や雀荘のアルバイト経験で培われた多少のことでは動じなくなった鈍感さと仲間を大事にする意識が何かにつけて功を奏したのだろうと思います。

満期定年は60歳でしたが、役員として残らせて頂き、ようやく2023年(令和5年)今年になって退任させてもらいました。やっとのことで自由の身となり、これから始まる第二の人生を趣味の釣りや旅行などしながら、ゆっくりしようと考えていました。

が、それまで名ばかりの八戸川漁業協同組合の理事をしていたのが運の尽き、昨年12月末に急逝された同組合長の後任問題が勃発し、理事会で有無を言わさず的に推薦、選任されてしまいました。就任直後の仕事は、長年放置されていた、組合の定款・規則等の全面改正を行い、県・市町・総代会へのに報告・提案等から始まりました。

現在は草刈り、溝掃除、ごみ捨てなどの雑用もしながら、組合長として事務方の女性と二人で奮闘努力しています。こんなはずじゃなかったと思いながら、反面、人生は思い通りにはいかないものと諦めの境地の今日この頃です。

就職後にはまっていた鮎釣り大会(前列右が筆者)

突然・漁協組合長になった

最後に、組合長として漁協や河川の発展は第一義の課題ですので、ここで、プレゼンをさせて頂きます。「八戸川漁業協同組合」が管轄する八戸川は、江川支流の一級河川で島根県と広島県との県境の高峰阿佐山、三つ石山、天狗石山,雲月山その他から流下する大小20余の小流を集めた総延長135キロの河川です。

ダム建設により日本海からの遡上魚はいなくなりましたが、毎年アユ、ヤマメ、ウナギの稚魚放流を実施しています。急流である為、体形にしまりがあり、砂を含むことなく、餌となる良質な苔も豊富で「美味しいアユ」と絶賛されています。とてもきれいで、夏になると家族で水遊びに来られます。また、県外からもたくさんの遊漁者に来てもらいます。

皆様の中でヤマメやアユ釣りがお好きな方がいらっしゃれば、是非一度、当河川に遊びに来てください。また、天然のアユも販売、地方発送しています。こちらもおいしくて人気ですので、ご家庭用、進物用等に是非ご利用下さい。

八戸川漁業協同組合(浜田市旭町本郷魯8番地1)
電話0855-45-0422 fax0855-45-0212

拙い文章で恥ずかしい限りです。しかし、こうして何十年か振りに大学時代のあれやこれやを思い起こし、とても懐かしく思いました。この寄稿文を書かなければ、二度と思い出すことはなかったなぁ、とつくづく感じ入りました。最後に現役の東洋大学の学生の皆さんへのエールをおくります。

東洋大学の学生である事に誇りを持ってください。東洋大学の卒業生はあちこちで見かけ、活躍されています。大学の先輩・後輩である事で助けられたり、励まされたりしています。校友って良いものだと感じます。私が就職したとき課長から出身大学を聞かれ、「東洋大学です」と気恥ずかしそうに答えたところ、其の課長は「私も東洋大卒だよ」と堂々と応え、気絶しそうに驚きました。そんな出会いが社会人としての印象的なスタートでした。

岡 真二
1980年(昭和55年)法学部経営法学科卒業
浜田市旭町在住

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