母校支援

【Part 1】新たな世界へ挑戦!

私は現在、ジェンパクトという米系企業で営業担当の執行役員をしています。私の主な仕事は、大企業の既存顧客との関係を維持し、事業を拡大すること、さらには新たな顧客を獲得することです。

ジェンパクトは元々GE(General Electric)の社内部門として、グローバル全体のシェアードサービス(注1)を提供していましたが、2005年に独立し、ニューヨーク証券取引所に上場しました。

その後、リーンシックスシグマ(注2)とハイパーデジタルをベースにプロセス改善と生産性向上を実現するBPO(ビジネスプロセスアウトソーシング)(注3)を提供し続け、現在では全世界で11万人以上の社員を抱え、Fortune500(注4)にランクインする企業の1/3と取引をしている業界のトップ企業です。

日本ではまだ知名度が低いかもしれませんが、約80社の企業と取引し、約1000人の社員を擁して、オペレーション及びコンサルティングのサービスを提供しています。

(注1)シェアードサービスとは経済学用語の一つで、存在している複数の企業が、人事や経理や情報などといったサービスの間接部門を共有すること。
(注2)無駄とムラを排除して業務効率化を図ること。
(注3)企業活動における業務プロセスの一部について、業務の企画・設計から実施までを一括して専門業者に外部委託すること。
(注4)Fortune誌によって作成および発行された年次リストであり、米国のトップ企業/企業の500を会計年度の総収益でランク付けしています。

勉学よりも自転車競技に打ち込んだ学生時代

 私は1982年に1浪の後、法学部経営法学科に入学しました。当時、自転車競技をしていて、大学で体育会競技部を立ち上げようとしましたが、最終的には有名なクラブチームに参加することに決め、体育会は諦めました。

学生生活は正直言って真面目とは言い難く、冗談交じりに「小野寺はゴールデンウィークが終わると夏休み」と揶揄されていました(苦笑)。しかし、そのおかげで、自転車競技では都民大会で優勝し、東日本実業団では6位に入るなど、まずまずの成績を収めることができました(汗)。

大学をなんとか4年間で卒業し、野球用品メーカー/商社に就職しました。入社後は商品課に配属されました。商品課では、サプライヤーとの取引を統括し、入荷の計画や在庫管理、取り扱う商品の検討などを行います。今にして思えば、この時点で私はその後の専門領域(調達・購買)に関わる業務に就いていたと言えます。

この頃から、中学まであまり得意ではなく、成績も5段階評価で2だった英語を、自宅の近くにある横田基地で習い始めました。実は大学3年の春休みと卒業前にそれぞれ1か月ほどアメリカを旅行し、知り合いのアメリカ人宅にも滞在しました。その際、そこにいた日本人留学生を見て、おぼろげながら憧れを抱いていたことも重なって、英語を習い始めたことでアメリカに行きたいという思いが芽生えました。

希望していたスポーツ関連の会社に就職し、プロ野球選手と関わることも楽しい経験でしたが、結局のところ、フルタイムの仕事に就くにはまだまだ準備が足りなかったと感じました。その結果、1年足らずで退職し、アルバイトをしながら英語の勉強を続け、留学の準備に入ったのです。

いざアメリカへ留学。そして結婚

 1988年の冬に渡米し、州立アリゾナ大学の英語学校で1学期とサマースクールを過ごし、9月から政治学部に編入することができました。今考えると、当時は単純に学部に編入することばかり考えていましたが、大学院へ進むべきだったと反省しています。実際の目的はアメリカに行くことで、恥ずかしながら深く考えていませんでした。

それでも、この頃は今までの自分では考えられないほど勉強に打ち込みました。平日はほとんど勉強に費やし、週末は息抜きという充実した日々でした。

また、ホームステイしていた知り合いの家は特別な環境でした。父親は大学病院の心臓医療部門のトップ、母親が市議会議員で、しかもユダヤ人家庭。そのご縁で、日本人で初めてBiosphere 2(注5)に入ることができたり、現地のお祭りに参加させてもらったりするなど、日本では出来ない経験をさせてもらいました。

その後、紆余曲折があり、その家を出て、現在のアメリカ人の妻と一緒に暮らすようになり、学生結婚しました。親にも知らせずに決め、結婚1週間前に連絡したため、当然ながら親は怒り心頭で、仕送りも止められました。自分で決めて独立したのだから、自分でやるべきだと。

その後、大学でバイトをしながら、さらに日本料理店でも働きながら大学に通っていました。しかし、生計を立てるのが難しくなり、大学3年次で休学を決意。その後、住んでいたツーソンの小さな広告代理店で日本語ができるスタッフを探していたので応募し、すぐに採用されました。

(注5)アメリカ合衆国アリゾナ州オラクルにある地球システム科学の研究施設。

広告代理店の仕事が順調に進むも・・・

 その会社に入ってみると、非常に独創的なビジネスモデルが考案されており、それは、後に喧嘩別れすることになるアイデアマンの社長によって創られました。このビジネスモデルは大企業が進出しない英語圏の場所(具体的にはアラスカ、グアム、プエルトリコなど)で展開するもので、グアムでの業務は日本語中心で、主にMacを使ってDTP(デスクトップパブリッシング)を活用して広告を作成する業務でした。

当時、日本ではMacはおもちゃのような扱いでした。しかし、私はMacを使いこなすと同時にDTPの知識も身につけました。これにより、以前は外注したり、時間と費用が掛かったりした業務がスムーズに行えるようになり、私は重宝され、間もなくグアムでの営業も任されるようになりました。

グアムには多くの日本人が住んでいるので、コミュニケーションもスムーズに進み、多くの人との関係を築く機会が増えました。仕事は非常に楽しく、やがてグアムに設立予定の新しい会社で副社長のポジションをオファーされました。

しかし「好事魔多し」とはよく言ったもので、私が日本人クライアントと親密な関係にあると疑念を抱いた社長が、私がグアムでの転職を計画しているのではないかと疑い始め、結果、関係が悪化。すでに引っ越しの準備を進めていたにもかかわらず、私は退職することになりました。

当時、アメリカは不況の真っ只中で、私は結局、日本に戻る選択をしました。帰国して間もなく、応募した仕事の担当者がカリフォルニア大学バークレー校を卒業したアメリカ人でした。私がいたアリゾナ大学とは同じ大学地域リーグであるパック10に所属していたため、スポーツの話題で盛り上がりました。そして、ビジネスよりもスポーツで意気投合し、面接を経て入社することになりました。

その会社は、現在も美容界では有名企業で、訪問販売も行う化粧品会社です。当時は社員200人足らずの中小企業でした。私は国際部に配属され、意気投合したアメリカ人がいましたが、母国へ帰国してしまい、国際部は部長と私、そして派遣社員の3人だけの組織でした。

この間、輸出入業務、海外販売、海外商標登録、海外展示会への出展、輸入時の薬事法に関する厚生省との折衝、工場との出荷調整など、小さな組織の中でさまざまな業務に一貫して携わりました。

気が付けば4年が経過しており、帰国当初は、自分の本当の価値が何かよくわかりませんでしたが、この頃には徐々に自分の価値がわかるようになり、より高い目標を持って仕事をしたいと考えるようになり、新たな世界へと進む決心をしたのです。

第2話へ続く・・・

1986年卒業
法学部経営法学科
小野寺 富保

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