母校支援

【Part 2】振り返れば色々な経験が今に生きている

第1話を振り返って

現在、業界のトップ企業であるジェンパクトの執行役員をしている小野寺さんは、学生時代、勉学よりも自転車競技に打ち込み、素晴らしい戦績を収めました。卒業後は野球用品メーカーに就職するも、1年で退職し、英語の勉強をしてアメリカ留学を決意。その後、アメリカで結婚を機に、広告代理店で働き始めました。アメリカの不況の影響で日本に帰国後、化粧品会社の国際部で、さまざまな業務を経験した後、より高い目標を持って仕事をするため、新たな世界へと進む決心をしました。ここから、彼の転職とステップアップの歴史が始まります。

新たな仕事は海外コンテンツの配給会社

いくつかの会社に応募しましたが、最終的に選んだのは、国内大手の商社がアメリカで世界最大のCATV統括会社との合弁で立ち上げた、海外チャンネルなどを配給する会社です。

まだ設立から間もない会社で、当時の社員は約250人。これまでのエンドツーエンドの輸出入業務経験が評価され、購買部門のアシスタントマネージャーのポジションで入社しました。入社後すぐに社内でぶつかっている現状を垣間見て、正直、「しまった!」と思ったものです(笑)。

ただ、「捨てる神あれば拾う神あり」という言葉通り、多くの問題が山積みでしたが、その中で積極的に問題に立ち向かう決断力のある人が親会社から出向してきました。私や上司も含め、組織全体が問題に直面し悩んでいましたが、議論を重ねた結果、その方が私の上司になったのです。

そこから二人三脚での改革が始まりました。その方はアメリカに5年間赴任し、調達・購買について様々なサプライヤーから学んでいて、次々と新しいアイデアを提案しました。新システムの導入、これまで軽視されていたCATV局との協力関係の構築、サプライヤーとの連携強化など、さまざまな取り組みを通じて改革を進めました。彼は「小野寺は、仕事は遅いが、仕事を理解し、正義感も強い」と私を評価してくださり、育ててくれました。

部長である上司、課長の私、そして新たに入社した新人の3人が中心となり、数十億円の不良在庫の処理、アメリカ側から一方的に押し付けられた技術仕様への抵抗、傘下局との関係改善など、積極的な調達・購買組織を構築していきました。

退職する頃には従業員数も売上高も入社時の数倍に増加し、通信関連施設や機器に関する多くの製品を、日本で最も多く、最安値で購入し、業界を牽引しました。

しかし、このままではCATV業界人になると感じ始め、転職の機会を模索するようになりました。そんな時、自分の業務の専門知識や条件が外資系企業に求められていることに気づきました。深夜に求人情報を眺めていた時、世界最大のソフトウェアベンダーがまさに私の経験と実績に見合うポジションを募集しているのを見つけたのです。

あらたな世界へと突き進む

 少し長くなりますが、運命的なものを感じているので書かせてください。

真夜中に必要項目を入力して送付しようとしましたが、エラーが発生して送付できませんでした。それで、再度すべてを入力し直して送付しましたが、同じエラーが再び出ました。すでに夜中の1時近くで、縁がないのか…と落ち込みましたが、これは本当にやりたい仕事なのだ、と思い直して再度入力。3度目の正直で無事に送信完了。

翌日、ベンダー企業の人事から連絡があり、計3回の面接を経て、入社が決まりました。面接はスムーズに進み、質問も予想通りだったこともあり、自信を持って答えることができました。まさに“Right place, right timing, right person”でした。6年以上勤務した会社からの転職で、仕事内容は、直接材購買/SCM(注6)から間接材調達・購買に替わりました。

しかし、外部サプライヤーからの調達や関係構築という基本的な要素は変わりませんでした。入社当初から日本チームの一員として、グローバル・マーケティングエージェンシーの選定、各エージェンシーの責任者との面談や評価を行い、入社1か月で本社のあるワシントン州シアトルで開催されたグローバル・ワークショップに参加しました。

数千億円のマーケティング予算を扱うプロジェクトに参加し、そのスケールの大きさに触れました。実は、日本はまだまだグローバル化が進んでおらず、私は調達・購買の立場から、日本的な組織がグローバル化されていくプロセスの真っただ中を走り抜けました。

1990年代以降、グローバル企業はダイバーシティやグリーン・イニシアティブ、反社会的活動への取り組みを、自社だけでなくサプライヤーも含めて進めてきました。20年以上の歳月をかけて、こうした取り組みはESG(環境、社会、ガバナンス)やSDGs(持続可能な開発目標)として体系化され、私たちは今、取り組もうとしています。残念ながら、世界と日本では20年以上の隔たりがあるのです。

間接材の調達・購買とは、基本的には原材料や部品以外の企業の外部支出すべてを指します。宣伝広告、施設管理、外部人材、情報技術(IT)、設備、工場副資材など、企業のすべての部署に関連する業務です。日系企業は通常、これらの支出の約20%しか行っていないのに対し、欧米企業の多くはそのすべての支出に関与しています。

私は営業部門でテレセールス業務を統括し、20億円を超える案件を担当しましたが、ポータルサイト開発の中国オフショア化案件においても、4億円近いコスト削減を達成しました。

2009年には、当時世間を騒がせた偽装請負問題に社内弁護士と協力してプロジェクトとして取り組み、すべての契約と業務を適正化したことが評価され、社長賞を受賞しました。管理部門としての受賞は非常に珍しいものでした。その後、日本国内だけでなく、アジアパシフィック全体の外部人材の統括や、北南米、ロシアを含む広範な地域の統括業務を担当しました。

2010年以降、グローバル組織の再編が行われ、私のポジションは日本から米国レドモンド本社に移ることになり、アメリカへの移住も考えましたが、結局、条件が整わず、さらに海外のエージェントからいくつかのオファーがあったことから、ベンダー企業を退社し、新たなチャレンジを選択しました。

(注6)サプライチェーンマネジメント(Supply Chain Management)サプライチェーンすなわち、製造する製品の部材調達から設計、製造、そして物流を経て、最終的にエンドユーザーの手に渡るまでの流れを統合的に見直し、全体の効率化と最適化を実現するための経営管理手法。

1本の電話が新たな挑戦を生む

 この頃には、私の情報が様々なところで収集されていたようで、有難いことに企業からメールや電話がかかってくることもしばしばありました。2012年初め、一本の電話があり、私は初めて深圳(シンセン)を訪れました。その近代化に圧倒されつつ、それ以上に先方の情熱に圧倒され、その訪問で入社を決めました。この会社は、元々経営コンサル会社から分離した非常にハイレベルでグローバルなソーシング請負会社で、アメリカに本社があり、約800人の従業員を持つ中堅企業でした。

日本でも業務を行っていて、日本法人を立ち上げるので代表になってほしいということで受諾したわけですが、最初は法人ができていなかったため、個人事業主としての業務委託契約を結ぶことに戸惑いました。オフィスもまだ用意されておらず、受託先企業にデスクはありましたが、他の案件も抱えていたため、半分は自宅で仕事をこなすことになったのです。

これまでの私の役割はTrailblazer(先駆者)のような仕事でした。広大な草原や山河を前にして新しい道を切り開き、街を築く作業の連続でしたので、このような働き方にもすぐ慣れ、日本だけでなくアジア全体の仕事も兼務するようになりました。

さすがにこの頃が一番働いた時期で、もうすぐ50歳という頃でしたが、新規の顧客のデータ分析を3日間でやるために、毎日夜中の3時まで仕事をするようなことを平気でこなしていました。

いつもできるとは限りませんが、ここぞというときに自分を追い込む経験をしておくと、後々にそれが糧となり、自分はここまでできるという自信に繋がります。私にとってそんな経験をしたのがこの時期です。

しかしここで予期せぬ出来事が起こりました。 第3話に続く・・・

1986年卒業
法学部経営法学科
小野寺 富保

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