母校支援

白山での学びをステップに、島根の今を生きる

序章・モラトリアム

私の思い出話は何の足しにもならないと思いますが、まぁ、そんな時代もあったのだとしばらくお付き合いください。

私は、大学時代は色々な面でモラトリアムと思っていました。たまたまそのステージが東洋大学にあったわけですが、ここで得た経験、仲間たちと過ごした時間は無比のものでした。その意味で東洋大学に感謝しています。

都会地の大学が希望だったので、授業料の安かった東洋大学を地方会場(広島)で受験しました。1973年度(昭和48年度)入学式は武道館でありました。文学部史学科の募集定員は40名、入学者は100人を超えていました。過剰な程の水増しで、どの教室も当初は詰め込み状態、マイクでの講義には驚きました。白山にはプレハブ校舎もあり、マスプロ教育の現実を見せつけられたのが事の始まりです。

日本最南端の碑波照間島で(2020年11月)

旧中仙道沿いの共同アパートの日々

1、2年時は板橋区蓮沼の共同アパート(四畳半一間)。他室の学生等と一緒になって飲んだり、あそび麻雀したりの日々でした。3年時には仲宿の共同アパート(六畳一間)に転居。仲宿は江戸時代中仙道の江戸を出て最初の宿場町、旅人宿で栄えたところで中ほどにある文殊院(投げ込み寺)の向かい側の路地を入ったところにアパートはありました。

引越しは夜間、近所の工務店でリヤカーを借り、蓮沼から大和町、環状七号線を横断、石神井川に架かる板橋を渡って仲宿へ、旧中仙道を往復しました。仲宿には冒険家植村直己(1941〜84年)さんの下宿があったとされ、帰国の際には、近所の銭湯『梅の湯』に通ったとされています。

もちろん出会うことなどありませんでした。バイト上がりの日には仲間と一緒に『梅の湯』でひと風呂浴びて、近くの赤ちょうちんのスタンドでホッピーをひっかける、至極の時でした。入学時の銭湯代は48円、卒業時には120円になっていました。また、上級生(法学部)から譲り受けた古い白黒テレビの前には、『大相撲ダイジェスト』(NET・テレ朝)や『どてらい男』(関テレ・フジ)、『宇宙戦艦ヤマト』(日テレ)の放送時間になると仲間がよく集まりました。このテレビも卒業の際には下級生(第二文学部)に譲りました。

神保町古本街と池袋文芸座考察

入学した頃から、都営六号線(今の三田線)白山駅を素通りして、神田神保町の古本街で時間をつぶしていました。大型書店から専門古書店までブラつくだけで不思議と知的高揚感に浸りました。坂口安吾、高橋和巳、大江健三郎、五味川純平、小林多喜二、E・M・レマルク、E・ヘミングウェイの作品に傾注し、本棚に本が増えていくのが嬉しかった。

池袋の文芸座(1階)にはよく通いました。フランス・ヌーヴェルバーグ(トリュフォー、ゴダール等)やイタリア・ネオリアリズム(ロッセリーニ、デ・シーカ、ビスコンティ)、アメリカ・ニューシネマ(ペン、ロイ・ヒル、ペキンパー等)の諸作品がかかった時は興奮しました。

J.フォードの活劇、ルネ・クレマンのサスペンスもの、D.リーンの文芸大作も楽しみました。文芸座(地下)では邦画も楽しみました。東映の任侠映画、日活のニューアクション、ATG作品、日活ロマンポルノなど、当時のファンは出演者クレジットを拍手で迎え、主役登場のシーンでは掛け声をあげるなど、スクリーンを前に熱気立っていました。

上映後は誰もが高倉健(『昭和任侠伝』・花田秀次郎)や、渡哲也(『無頼』・藤田五郎)になっていました。1968年〜69年の東大闘争時には任侠シリーズの人気を模して「とめてくれるなおっかさん、背中のいちょうが泣いている、男東大どこに行く」という、有名なコピーがありました。

ピカデリー系では『人間の條件』(小林正樹監督・仲代達也主演)のオールナイト一挙上映(9時間31分)も二度、三度見ました。とにかく名画座系に足しげく通いました。そういえば、板橋区の清水映劇では土曜日の幕間に月一でストリップ上演もありました。踊り子がタクシーで来場し、開幕を知らせるブザー音が流れると向かい側の大衆酒場から客の姿がサーッと消えました。

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白山の闘いの残照

1960年代後半の東大・日大闘争、全共闘運動の盛り上がりも、連合赤軍事件(71年)以降急速に減退し、学生活動家はキャンパスを離れ、社会の片隅に潜伏していきました。入学した頃、東洋大でも中核、革マル、反帝学評系の活動家の姿は見なく、社青同協会派や学生インター、民学同などが少数ながらも集会や学内デモをしていました。

日本共産党系の民青や左派の共青同の姿もありました。マル青同(J戦線)も独自路線で威嚇行動を行っていました。狭いキャンパス内は立看の見本市でもあり、白山通りから上り詰めた6号館・2号館前のスペースには昼休み時、長椅子が並べられ、集会の場となりました。片隅に桐の老木がありました。

1973年は原油不足から石油化学製品(トイレペーパー、精糖など)の買占め行動が起こり、社会不安を醸成しました。学生運動も米空母ミッドウェイ横須賀母港化反対や成田空港建設阻止闘争等に戦線を組み、学外で先鋭化していました。対立党派による内ゲバ抗争は死者が出るほど凄惨を極め始め、74年には東アジア反日武装戦線の企業爆破事件も相次ぎ、学生運動は社会的支持を大きく損ないました。

東洋大学では1973年(昭和48年)から学費値上げ反対、朝霞移転阻止の学生運動が活発化し、6月には白山通りに学生デモ隊が繰出し、一時交通を遮断。警視庁機動隊と衝突し、数名の学生が逮捕されました。1974年1月28日、早朝から大学の出入口を長机や椅子でバリケード封鎖した学生達に対し、堀秀彦(1902〜87年)学長は何度か退去を求めましたが、学生達はこれに応ぜず、午後、大学は実力撤去を敢行、京北高校側から機動隊を導入しました。

4号館前では学生デモ隊と機動隊が衝突を繰り返し、夕刻には威力業務妨害(不退去罪)で38名もの学生が逮捕されました。堀学長はこの後、大学をロックアウトし、学年末試験をレポート試験に切り替えました。1974年5月、堀学長は辞任しましたが、学長職は1975年5月、磯村英一(1903〜97年)社会学部長が再登板となるまで空席でした。

欧州史の学びから、本郷TANTANでのお別れ会まで

『ドイツ理想主義におけるナポレオン像』。フランス革命後、ナポレオン遠征軍は周辺諸国に自由、平等をもたらし、小国乱立のドイツでは長く封建社会に束縛されていた若者たちは希望に胸膨らませ、これを大歓迎しました。しかしながらナポレオンが新たな支配者となると、若者たちは失望し、身近に新たなパトロンを求めます。哲学者J.G.フィヒテは『封鎖商業国家論』、『ドイツ国民に告ぐ』を上梓し、プロイセン国家にnation(国民・国家)を重ね、期待を寄せました。

詩人ヘルダーリンや哲学者ヘーゲル、シェリングはさらに高みの精神世界に入り込みました。若者たちは封建諸侯の庇護にありながら、新しい時代、精神、秩序をどう受け止め、社会の変革形成にどう関り、そして後世に何を伝えようとしたのか、彼らの理想と幻影を紐解き、一考してみました。指導教官はロシア史の田中陽兒(1926〜2002年)先生でした。

1977年(昭和52年)あっという間に学生生活の終わりが来て、武道館での学位授与式をむかえました。私は式の直前に会場から抜け出し、仲間と白山に引き返しました。白山上の雀荘で時間を過ごし、その後、大学で学位証だけもらいました。史学科がたまり場にしていた本郷一丁目の喫茶店『TANTAN』でお別れ会、翌日、アパートを引き払い、島根に帰省しました。

地方行政に生きた三十有余年

1977年(昭和52年)4月から島根県立浜田水産高等学校で2年間社会科(世界史・倫理社会・政治経済)の常勤講師をしました。1979年(昭和54年)7月に島根県職員(事務吏員)に採用され、県税業務で出雲総務事務所(間税)、川本総務事務所(課税・徴収)に勤務、その後、益田土木建築事務所(益田川ダム建設)、松江土木建築事務所(用地課)、隠岐支庁空港建設局(業務課)と公共用地の取得業務が続きました。

この間、労働組合(島根県職労、自治労島根県本部)の専従も4年(1991〜95年)余り務めました。その後、県庁では土木部管理(総務)課で建設業の許認可、経営事項審査、入札・契約業務、入札監視委員会運営、建設産業の新分野進出に携わり、港湾空港課では施設管理(県営3空港、重要港湾3港、県管理15地方港湾)を担当しました。高規格道路事務所(業務課)で松江だんだん道路の事業認定事務も経験しました。

2010年(平成22年)土木総務課建設産業対策室に戻り、2015年3月、斐伊川神戸川対策課(尾原・志津見ダム周辺の地域振興、斐伊川放水路グリーンステップ活用、大橋川改修)を最後に定年退職しました。振り返ってみれば県では土木関係職場が大半でした。

日本最西端の碑與邦国島で(2021年11月)

TOYOの理念は未来を照らす

2015年(平成27年)県職員退職後は、危険物取扱者・消防設備士の国家試験を行う『一般社団法人消防試験研究センター島根県支部』に3年間勤務。2018年(平成30年)からは、月18日勤務で県内の私立学校(中学・高等学校、幼稚園、専修・各種学校)の団体事務、教育振興、退職資金を扱う『一般社団法人島根県私学教育振興会』に勤めています。私立学校には創立者の教育意図を示す独自の建学の精神が有ります。それに沿い先進的で多様性ある教育が行なわれています。

母校・東洋大学も井上円了学祖の教育の理念を掲げ120余年の歴史を重ねてきた私学です。この理念【諸学の基礎は哲学にあり】を教育方針としてあらゆる分野で発展をなしてきました。これまでも、これからもTOYOの魅力として大切にしてもらいたいものです。また、大学で学んだものとして生涯大切にしたい精神です。

地域貢献活動では、松江市城西公民館(運営協議会子ども育成部長)で2007年(平成17年)から地域の子育て支援活動を手伝っています。松江市立第一中学校学校コミニティースクール運営協議会(会長)、松江市千鳥町の杜学園教育推進会議(会長)にも参画しています。2015年(平成27年)から松江市の民生児童委員も引き受けています。

最後に、現在は読書、家ネコ2匹の世話、里山歩き、沖縄の島々を歩く、プロ野球観戦(横浜DeNAベイスターズ)、DVD鑑賞(小津安二郎、山田洋次)、TVゲームなどを趣味として楽しんでいます。

お付き合いいただきありがとうございました。記憶を手繰る中で私自身が楽しい時間を過ごさせていただきました。このような機会を与えていただきました県校友会の皆さんに感謝です。

なにかと集合場所の白山神社で(2023年1月)

三上 康則
1977年(昭和52年)文学部史学科卒業
松江市在住(大田市出身)

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