アナ研よ、永遠に!〜アナ研60周年に寄せて〜
去る10月9日(スポーツの日)に、東洋大学アナウンス研究会(以下、アナ研)の60周年OBOG会の総会とパーティーが、白山キャンパス2号館スカイホールにて開催されました。当日は、昭和35年入学の大先輩から平成31位年入学の後輩まで、北海道や九州を含む遠方からも総勢90人が集まり旧交を温めました。
日本語の大切さを学び直すために立ち上げたアナ研
前回の東京オリンピックを翌年に控えた昭和38年に、当時の放送研究会アナウンス部に在籍していた4人の先輩が、日本語の大切さを学び直そうと退部しました。それに賛同した後輩たちと「新しい部を作ろう」と『アナウンス専門研究会』を立ち上げたのがアナ研の始まりです。
当時は、「声は人なり」と言われるように、技術面だけでなく、自分の言葉で人とのコミュニケーションが取れるように、アナウンサーとしての基礎を毎日練習しました。最初の数年間は、わずか十数人の小規模な研究会ながら、白山祭にも参加しました。
状況が一変したのは昭和45年でした。毎年数人だった新入会員がその年は30人以上に膨れ上がり、翌年には私たちの代が20人以上加わって、60人ほどの大所帯に。先輩たちは非常に困惑したと聞きました。
当時は、月曜から土曜まで毎日全員で練習しました。発声練習の後は、5つの班に分かれて基礎練習。夜は班練習のほかに、『アナウンサー志望』『ニュース』『朗読』『DJ』の4つのブロックに分かれて専門的な練習を行いました。これらのブロック練習には、上級生が審査委員になって基礎力を判定する『ABC考査』で、A判定を受けないと参加できないという厳しいものでした。
練習場所は、当時の京北高校に隣接する旧6号館の地下スタジオ、調整室、ブース、そして化粧室。私たちが入学する数年前までFM放送の研究を行っていた大学の施設を無償で借りていたものでした。
このスタジオを使って試験電波も流していたそうで、校友会の先輩の一人が「俺が第1声を出したんだ」と話しているのを聞いたことがあります。もしかしたら、東洋大学が今のTOKYO FMの前身だったのかもしれません。このことはもう少し調べてまとめたいと思っています。
アナ研TAKとなり表現力を磨く
私たちが入学した昭和46年に白山祭に本格的に参加しました。大教室に作ったスタジオと地下スタジオから、4日間にわたり朝11時から夕方5時まで、生放送を行いました。この白山祭を機に、アナウンス専門研究会ATSからアナウンス研究会TAKに名称を変更。当時は『70年安保』『学園紛争』の時代で、過激派が放送機材を奪いに来るという情報もあり、スタジオに泊まり込むこともありました。
また、東洋・国学院・明治学院・早稲田を中心に約10大学が参加する『大学アナウンス連盟』が毎年行う『アナ連祭』のアナウンスコンテストと番組発表で高い評価を受けていました。そのため、『表現力の東洋』と呼ばれ、他大学から一目置かれていたのです。
この頃から、アナ研メンバーの中でアナウンサーを目指す人が増加し、新聞社を含めマスコミ関連の職に就く人も増えました。これまでアナウンサーになった人は約40人ですが、現在はナレーターや声優なども含め、「しゃべりの」世界に進んだ人はさらに増えているはずです。また、現役のアナウンサーとして活躍している人も複数います。
プロのアナウンサーになって挑戦を続ける
さて、私もアナウンサーになった一人ですが、アナ研に入った頃は、将来アナウンサーになるとは全く考えてもいませんでした。3年生も終わりに近づき、いよいよ就職活動となったとき、唯一自信があったのはアナウンスの練習量だけで、一般企業には就職できそうにないと判断したのです。
なにしろ授業に出ない日はあっても、毎日アナ研のスタジオには足を運び、基礎練習に明け暮れていました。しかし、先輩は私がアナウンサーになるとはまったく思っていなかったようで、合格した時は「お前が!」と驚かれました。
この先輩から、「俺は局に入ってから発声練習なんてやったことはない。アナ研の4年間でしっかりやってきたから」と聞かされていました。この先輩は今でも現役アナウンサーとして50年以上自分の冠番組を持ち続けています。
ラジオ関東(現在のラジオ日本)に入社してまもなく、競馬の実況をやれと言われたときは戸惑いました。それまで馬券を買ったことすらなかったのですから。その後、報道番組などを経て、子会社のラジオ日本スポーツに移り、箱根駅伝や東京マラソンなどに携わりました。
その後フリーアナウンサーとして、2001年3月までラジオ日本で競馬実況を担当。この間、ダービーや、有馬記念、ジャパンカップなどのG1レースをはじめ、アメリカのケンタッキーダービーを2回、凱旋門賞も現地から実況しました。
特に凱旋門賞の時は、予算の関係で技術部員が行けなかったので、私がコーデックという機械を持っていき、四苦八苦しながら放送の準備をしました。このようなことができたものアナ研の白山祭で技術担当になったおかげです。
その後、私は20年前に自分の会社を立ち上げ、スポーツ専門チャンネルで、テニス、スキーのジャンプ・距離、ボブスレー、陸上競技などの実況に携わり、調布FMではサッカーのFC東京の実況放送の基礎を作りました。
また、アナウンス学校の講師などを経て、現在は1クラス4人の少人数制でアナウンス力を磨くクラスや朗読クラスなど、15人が参加するアナウンス学校を持っています。この学校のメンバーで、朗読会・朗読コンサートを年に5、6回開催するほか、FM世田谷というコミュニティ放送局で朗読番組を制作・出演。また、J-WAVEというFM局でニュースデスクを担当しています。
アナ研への愛とつながりは永遠に・・・
今考えると、東洋大学アナ研でのすべての経験が、今の仕事につながっています。東洋大学に入学し、60年も続いているアナ研に入ったから、今の自分があると思っています。
アナ研60周年をもって、私はOBOG会長の任を退きましたが、新たにOBOG昭和会を立ち上げ、今後もOBOG会とのつながりを維持していく予定です。また、平成時代に入学した若いOBOG達もそれぞれ新しい会を立ち上げる計画があると聞いています。
東洋大学アナ研に対する愛は決して尽きません。東洋大学アナ研の絆は永遠に続いていくでしょう。現在のメンバーの皆さんには、これからもアナ研の活動を維持し、アナ研の歴史を紡いでいってほしいと願っています。
1975年
社会学部卒業
武田 肇
アール・エフ・ラジオ日本 J-WAVEニュースルームデスク
その他 ナレーション、CF、CM(永谷園、自動車各社、ロッテなど多数)
映画(声の出演―「アナザヘブン」「極道記者Ⅰ・Ⅱ」など)
A・STEPアナウンス・フォーラム主宰