母校支援

応援指導部同行顛末記

2023年10月9日(月)知らないうちに「体育の日」から「スポーツの日」に名称が変更されたが、出雲では『アレ』が例年同様始まる。『アレ』とは「第35回出雲全日本大学選抜駅伝競走」だが、こんな長い名前は誰も口にしない「出雲駅伝」、オールドファンには「神伝」と呼ばれる駅伝大会だ。

母校東洋大学は1995年第7回大会に初出場し、今大会で23回目の出場となる。一昨年まではコロナ禍で沿道の応援が出来ず、昨年は沿道の応援が認められ、今年は大規模応援団、いわゆる大学応援団も認められた。今日は、「2023年東洋大学応援指導部同行顛末記」をお話ししたいと思います。

8月某日お盆前に大学の学生課に電話する。しかしお休み、その後数回電話するも担当はお留守。私「布野」はストレスが溜まり始める。9月の中旬になり応援指導部から「東洋大学の応援場所教えて」のメールが届く、応援場所は事前に児玉支部長に抽選に参加いただき、最高の応援場所を引き当てていただいた。

メールのやり取りの結果、応援指導部は10月8日の夜、チャーターしたバスで白山を出発、9日10時に大社着。そこから9日中はバスは動かせない事が分かりました(要するに運転手の方の働き方改革の・・・)。

出雲駅伝まであと20日を切った時点で乗れる貸し切りバスが有るのか、相当の不安を抱えながらバスに関しては苦しい時のOB頼み!大学OBの某バス会社元重役に即電話し、自分のことしか考えない「布野」としては丸投げ。

すったもんだが有りましたが、OBのおかげで無事解決。9日の応援指導部の移動手段は確保されました。まずは一安心のスタートでした。

応援風景(スタート地点)

吹奏楽研究会OB、ガイドと応援に参加

次に出雲駅伝好例の再開されたサヨナラパーティー。今年はOBの参加は見合わせられ、参加者は選手と大会役員とサヨナラパーティーで演舞をする応援団に限定されました。9月の終わりまでは、選手は授業のため当日帰京、大学関係者の来雲もなく参加者0人の寂しい状態を予想していました。

しかし、応援指導部との交渉の結果、パーティーに演舞付きで参加を承諾いただきました。この件もサヨナラパーティー主催の炉談の会会員で校友会の児玉支部長と糸賀さんに丸投げ。これも無事解決。応援指導部から「誰か一人バスに同乗してください」とのお願いがありました。

これは、東洋大学吹奏楽研究部OBの布野伸一しかいないと思い、ようやく私の出番が来ました。思い起こせば、吹奏楽研究部と応援団の関係は50年前から始まります。詳細は分かりませんが今から50年くらい前、東都大学リーグの応援団同士の傷害事件があり、数校の応援団が廃部になっています。

東洋大学では応援団廃部後、新生応援指導部が出来る前、我が吹奏楽研究部が一時期応援団の代わりをやっていました。そのような歴史の流れを思い出しながら、応援指導部のバスのガイドを引き受けました。

一方、校友会のメンバーや甫水会の皆さんが乗る本隊の応援バスのガイドは、平田地区の校友の福間さんに乗って頂き、重点応援ポイントに移動して頂きました。ありがたい事です。

最後に「布野」から応援指導部に「昔とった杵柄で大学歌を吹かせて下さい!」とお願い!自画自賛ですが、私は学年の「スーパーエース」でした。5日前に楽譜をON-LINEで送っていただき練習開始。40年前を思い出しながらまずはゆっくりから、ギリギリ間に合いました。

応援指導部の陣容

いよいよ本番当日。応援指導部は予定通り10時に出雲大社着。校友会のバスは同時刻に出雲市駅を出発、10時50分に出雲大社の応援場所で合流。校友会は出雲大社へ必勝祈願し。私は応援指導部と打ち合わせを開始。応援指導部はリーダー2名、チア5名、演奏班4名の計11名。内1名が男性です。時代の流れを感じます。

楽器班はトランペット・アルトサックス・ホルン・打楽器、往年の名演奏家の私はメロディーが多いトランペットの楽譜を吹きます。応援指導部はまずは立ち位置の確認。これが重要らしく、ずいぶん長い時間を掛けていました。

この時間「布野」の仕事は、周辺のお店に挨拶回り「ご迷惑をお掛けしますがよろしくお願いします」、また「応援スペースを広げるためこの看板30㎝下げてよろしいですか」等のお願い。流石太っ腹の出雲人「必要なだけ下げて下さい」という返事をいただき、地元OBとしての面目躍如。

応援の開始時間は箱根・伊勢では決まっているらしく、これも大会役員に確認。答えは、何時からでもOKです。わが東洋大学は12時10分応援スタート。私が演奏する大学歌は一番最初と最後なので一安心。

指揮棒が振り下ろされた

団長は忙しいです、開始前に他大学への挨拶回り、顔見知りのOBなどが来るとこれにも対応。他大学の仲の良いメンバーとはスマホで写真撮影。他のメンバーも常に忙しそうに動き回っています。

出雲弁で言うところの「ここーそーどがない」状態でした。あっという間に12時演奏スタートまで後10分。チューニングもそこそこに団長の入場を待ち、指揮棒が振り下ろされるのを定位置にスタンバイして極限の緊張状態で待っています。

腕が振り下ろされる。息は充分にお腹に貯め、鳩尾に力を入れ、息を楽器の中に注入する。野外で音を出し、曲を吹くのは気持ちいい。私のパートの大学歌はすぐに終わり、応援指導部のメンバーはこれからが本番。選手が通り過ぎる1時間後までは、色々なパターンでの応援が繰り広げられる

大学生と言えどもハードなことだと容易に想像が付く。特に演奏班4名は休めないからキツそうだ。演奏しない時は後方待機。風のため楽譜が飛び、譜面台が倒れそうになる。私は団長に背を向け譜面台を押さえる。

しかし、譜面台は3本で、腕は2本、難しい作業が続く。無理な姿勢の保持は、私のような前期高齢者にはつらいものがあるが応援指導部の学生に比べれば弱音を吐けるものではない。至近距離で演奏を見聞きしていると管楽器セクションは休憩も出来ず本当に大変そうである。

スタート時間が近づくと、応援歌のエンドレス演奏が始まる。これは本当にキツイ。10分以上fffで吹き続けるサポートに入りたいが楽譜がなく断念した。トランペットの女性は相当バテていた。「義を見てせざるは勇なきなり」、エンドレス応援歌ゴール地点では吹くから楽譜下さいと言うと「楽譜ないので手書きします」の答え。出雲ドームに到着後バスの中で書いてくれた。

駒大応援団を横目に、最後の応援終了

ゴール地点の応援場所へ到着、後隣を見ると駒澤大学の応援団。楽器隊だけ見てもフル編成に近く、我が東洋大学の5~7倍はいそうな感じです。ここでは団長もチアも演奏班4名本当に全力を出し切る応援だと感じました。私も元東洋大学吹奏楽研究部のエースの本領を発揮出来たと自負して演奏を終了しました。視線は楽譜に釘付けでしたが。

レース終了後、駒澤大学の応援団とのエール交換、校友会の皆様との写真撮影にも終始笑顔での対応、これには敬意を表さずにはいられません、本当に見事な対応です。勉強になりました。

閉会式では例年通り、いつもの場所に集合。地元OBと近県の校友会、全国のOB・甫水会・甫水会OBが選手をお出迎え。ここでも応援指導部皆様が花を添えてくれました。酒井監督と選手の面々のお礼と反省、今後の抱負を聞き、これで応援の全てが終了しました。

応援風景(ゴール地点)

私のアレは終わった

応援指導部は、サヨナラパーティーの会場「島根ワイナリー」へ。
ここで演舞を披露します。ここでは担当を児玉支部長と糸賀さんにバトンタッチ、私は安心して帰路につきました。この出雲駅伝名物の「サヨナラパーティー」に東洋大学は監督も選手も参加しません。理由は、火曜日に授業があるからです。今年も学生課で大学の方針と確認しています。コロナ前から参加していません。

以前は中央学院大学が不参加だと聞いていました。本年は、東洋大学と立命館大学が不参加でした。ですから東洋大学は応援指導部の参加で面目を保った形となりました。今後の課題として、今年の様に大学関係者・監督・選手が参加しなくても地元OBは参加するのか?県外のOBの参加はどうするか?

会場の島根ワイナリーはスタッフ数の関係でコロナ前の参加人数にはもどらないらしいです。島根県支部としては今後の対応を考えなくてはならないと思いました。レースの方はスタート地点は道路に背を向け、ゴール地点では楽譜を凝視していたので全く分かりませんでした。ごめんなさい。

出雲・伊勢・箱根と続きますが、OBはただ応援するだけです。今年は、この原稿を書き終え、私の『アレ』が終わりました。

布野伸一
1981年(昭和56年)経済学部経済学科卒業
出雲市知井宮町

 

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