還暦を迎え、大学の4年間を振り返る
昨年、「阪神タイガース」が38年振りの日本一(アレのアレ)に輝きました。その38年前の昭和60年(1985年)は、私は大学4年生(61年3月卒業)。「御巣鷹山日航機墜落」「夏目雅子さんご逝去」のニュースがいまだに記憶に残っています。大学受験から卒業までの4年間に限定して、書いてみましたのでお付き合いください。
大阪受験からの東京受験
生まれも育ちも島根県松江市。地元高校から将来のことも全く考えず、進学校ということから安易に大学進学を決意。東京への憧れを抱きつつも、長男ということから近い関西への受験を勧められ、渋々納得。当時の大学受験は、1月に共通一次試験(現在の大学入学共通テスト)があり、2月の前半が関西の私立大学、後半は関東の私立大学と別れており、2月に入ると友人と10泊!の大阪旅行(受験)に夜行列車で向かいました。
時は昭和57年(1982年)、2月8日東京赤坂見附の「ホテルニュージャパンの火災」、翌日9日には「羽田沖日航機逆噴射事故」が宿泊先のテレビで流れていました。その大阪受験中、どうしても東京の憧れを捨てきれず、大阪から親に内申書を手配、大阪受験をいくつかキャンセルし、写真を撮りに松江に戻り、受験申込を済ませ、2月後半に東京唯一の受験(東洋大学)に向かいました。なんと、あろうことかその東京唯一の受験に合格!!大学の合格者名が地元新聞に掲載される時代で、自分の名前を見つけ大喜びした記憶があります。
【写真1】大学合格者の新聞掲載
おら東京さ行くだ
アパートは、同じ高校から経済学部に進む同級生が学生課の紹介で決めたアパートにまだ空室があるということで同じところで即決。住所は埼玉県朝霞市、最寄り駅は東武東上線の和光市駅、ちょうど和光市駅と朝霞駅の中間くらいに位置していました。管理人はおらず、玄関が1つ、玄関先には公衆電話、あと共同トイレ、共同風呂、共同使用の洗濯機設置の全10部屋の共同宿舎でした。1年生は私と前述の同級生と水戸市出身の3人。水戸市出身者は、自炊が得意で何度か手料理をご馳走になりました。印象に残っているのは「すき焼き」の作り方が違ったことと藁に包まれた本場水戸の納豆を見せてもらったことです。
軟式野球部
高校には野球部がなく、どうしても野球をしたかった私は、軟式野球部に入部。その後、流石に中学、高校と野球部に所属していなかった私は自分の実力の無さを自覚し、いつの間にか退部していました。その中で試合の度に下級生は道具を持ち、朝霞台駅から武蔵野線経由で青梅線に乗り、青梅市内の球場で試合に臨んでいたのが懐かしく思い出されます。
【写真2】軟式野球部(後列左から4番目が本人)
「麻雀」は大学生の必修科目
後に社会人となり、当時の上司が麻雀ができないと言う大卒社員に向って、「大学で何を学んできたか!」と言ったほど、当時麻雀は大学生の必須科目でした。1~2年次(朝霞)は、朝霞台駅前の雀荘が溜まり場。授業は欠席しても雀荘には誰かしらが居るという状況。3~4年次(白山)は、池袋西口の丸井の交差点近くのビルの雀荘を使用。時間があり、メンバーがいれば、常に麻雀をしていました。卒業後の今でも麻雀仲間の結婚式の終了後でも麻雀。現在も東京の仲間達は集まって麻雀をやっているそうです。
もう一つの必修科目「アルバイト」
アルバイト(以下、バイト)も色々やりました。まずは、後楽園球場でのコーラ売りのバイト。新人は一番売れる内野席には入ることは許されず、外野席専門。外野席でも階段に観客が座っているところをかき分けてフェンス際まで行くとよく売れます。あとはジャンボスタンドの修学旅行が狙い目でした。
アルミホイルで蓋をしたカップの状態で売っていて、蓋の焼き付けが甘いと運んでいる最中にコーラがこぼれ、白い下着がコーラ色になったことから知人から「コーラパンツ」というあだ名を拝命していました。2年次には南千住で老夫婦のお寿司屋。まだ回転寿司などない時代に平日でも意外に注文があることに驚きました。
夕方からの勤務で朝霞から日比谷線南千住までの通勤時に当時流行っていた赤川次郎の「三毛猫ホームズ」シリーズの単行本をかなり読み漁っていました。20年位前の東京出張時に南千住を訪ねましたが、老夫婦は既に亡くなられて、お店も更地になっており、もっと早く訪ね、挨拶していればと後悔しています。
3年次には、渋谷区でコンピュータのパンチカードのデータ入力会社での配達業務。軽自動車で渋谷から国道246号線を経由して、日本橋の某銀行までのパンチカードの配達を担当。後にコンピュータの会社に就職するのですが、当時、このパンチカードが何をするものなのか、知らずに仕事をしていました。また3年次の夏休みには、群馬県嬬恋村の別荘地でのバイトもいい思い出です。
就職活動
4年生になると池袋の西武百貨店にリクルートスーツを買いに行き、就職活動をスタート。第一希望の業種は、一応マスコミ関係。テレビ番組制作会社などの就職情報がなく、「マスコミ就職読本」なる本を入手し、掲載の会社に片っ端から手紙を出しましたが、ほとんどが定期採用は未定との回答。その中で唯一返事のあった会社でバイトをすることになります。
この間に「御巣鷹山日航機墜落(8月12日)」「夏目雅子さんのご逝去(9月11日)」の出来事がありました。当時は、4年次の10月1日が会社訪問解禁日。9月下旬にバイト先の偉い人から「今年の採用は3人。10月1日に会社に来れば君は採用だよ」と言われましたが、初任給の低さから就職をなくなく断念。民放キー局も数社、試験(面接)を受けましたが当然ながら全滅・・・
【写真3】就職活動時の会社訪問カード
そこから新たに就職活動に。以前会社訪問をし、適性テストまで受けていた会社に連絡し、面接、あれよあれよと就職が決まり、あっさり就職活動が終了。今の大学生の皆さんからすれば、なんといい加減な就職活動か、と自分でも思います。さすが「バブル(景気)」の1年前のこと!!
就職も決まり、3年間で単位もほとんど取っていたため、4年次は楽に過ごし、またゼミにも入っておらず、「卒業論文」なるものも経験せずに卒業。卒業式はなぜか帰省と重なり、欠席。後日、卒業証書は学生課に取り行きました。
最後に
大学4年間の記憶をたどってみましたが、情けないことに「勉学」に関することが全く出てこないのは悲しい限りです。還暦を迎え、60年のうちの大学での4年間、社会人として7年間、東京での生活、経験はその後に人生にとって、代えがたいものであったと自負しています。最後まで駄文にお付き合いいただき、誠にありがとうございました。
【写真4】令和5年島根県支部総会にて(後列左から1番目が本人)
荒木 博
1986年(昭和61年)経営学部経営学科卒
松江市在住