古墳の上に古墳を造る(発掘調査の記憶)
~大田市仁摩町庵寺[あんでら]古墳群 2008年(平成20年)の調査~
24基の石見地方東部の大古墳群
大田市仁摩町の庵寺〔あんでら〕古墳群では、今から約1700年前~1500年前の古墳時代前期~中期に造られた古墳19基と、約1400年~1300年前の古墳時代後期~終末期の古墳5基が見つかりました。石見地方東部においては屈指の規模を誇る大古墳群です。その特徴の一つは、細長い丘陵上に、個性的で、バラエティーに富んだ古墳がひしめき合うように造られていることです。
なぜ、古墳の上に古墳を造ったのか
麓の平野を見晴るかす絶好の位置にあるこの丘陵に、隙間なく連面と造られた古墳群。100年以上の中断を経て、後期後葉から再びこの丘陵で古墳築造が再開されたことによって引き起こされた現象が、前期後葉に造られた古墳(1-B号墳、方墳?約10m四方)を壊して、後期後葉に横穴式石室を持つ古墳(1-A号墳、円墳、直径約15m、墳丘高2m以上)をその上に造るというものです。1-A号墳一族の社会的地位がその動機だったと思われます。
この丘陵に古墳を造ることに固執した彼らは、石見地方最大の横穴式石室を持つ同じ仁摩の明神古墳一族に次ぐ地位にあったものとみられ、明神古墳とほぼ同時期に造られたこの石室は、奥行き全長6.5m、最大幅2.5m、巨大な岩石で三段積み(残存高1.1m)の上に天井石が乗るという規模となり、これを直径15mの塚山が覆うとなれば、もはや、「比較的広い平坦面が確保できる尾根の結節点にある古墳群中随一の前期古墳1-B号墳の上に造らざるを得ない。」と決意したのでしょう。
狙われた1-B号墳には3基の竪穴墓坑が並んでおり、横穴式石室の築造で避けられない2基については削られ、埋められてしまいました。唯一、石室築造の妨げにならなかった1基だけは破壊を免れ、掘り返されることもなく、石室とともに1-A号墳の墳丘に守られることとなりました。
八禽鏡青銅器の考察
破壊された1-B号墳を古墳群中の前期古墳随一とした理由は、西暦紀元前1世紀後半に製作された中国製の青銅鏡である八禽鏡(はっきんきょう:向かい合う8羽(匹)の小鳥あるいは小動物をモチーフとしたデザイン)一面が、朱で覆われていたであろう仰臥する被葬者の顔面に副葬されていたからです。どのような過程を経てか、中国から300年の時空を越えてもたらされた八禽鏡が、中心からはずれた墓坑の箱式石棺の中に副葬されていたのです。石室築造の犠牲になった中心の墓坑の内容はいかほどだったでしょうか。
石室(1-A号墳)の築造者たちは、古墳を壊して古墳を造るという「狼藉」をはたらかざるを得なかったことへの反省か、築造の成功を願ってか、横穴式石室奥壁の石積みのために掘り返した墓坑の中央(奥壁の裏)に改めて長さ22㎝の鉄剣1本を横たえて「地鎮め」とした形跡がありました。
島根の文化財への誘い
ひるがえって、私たちは、仁摩温泉津道路のインターチェンジを造るために庵寺古墳群を破壊しました。しかし、それが何であったかを記録保存し、研究して後世に伝えるという最低限の仕事を今、始めたばかりです。なお、島根県教育庁埋蔵文化財調査センターの「しまねの遺跡・発掘調査パンフレット」を検索して頂くと、「№4で庵寺古墳群遺跡」の場所・埋蔵物がご覧いただけます。是非ご覧ください。
◎No.4 庵寺古墳群遺跡
※サムネイル用画像引用
大庭 俊次
1987年(昭和62年)
文学部史学科・東洋史専攻卒業