ローカルテレビマンの東京クロニクル
日本武道館に向かうお堀端は一面、桜色に染まっていました。1983年(昭和58年)4月、東洋大学の入学式に臨む私を迎えてくれた満開の桜は、今でも脳裏に焼きついています。
私が専攻したのはマスコミ学で高校で新聞部に所属するなどメディアに関心のあったことが選んだ理由でしたが、とにかく偏差値に見合った国立大学に行かせようとする当時の高校への反発もありました。
卒業後は、縁あって東京の制作会社、共同テレビで2年間、カメラマンのアシスタントをし、TSKさんいん中央テレビで主に報道や番組制作の業務を約30年、今は関連会社のTSKエンタープライズDCでコンテンツ制作の仕事をしています。
学生時代から会社人になってからも長い間「マスコミ」に関わってきた私もまもなく還暦を迎えます。これまであまり振り返ることのなかった自分の歩みをこの機会に回顧してみようと思います。
大学生時代
放送現場で立ち会った昭和の終わり
1987年(昭和62年)大学を卒業後、私は仕事で3回の東京暮らしを経験しました。20代、40代、50代、それぞれわずかな期間ですが、異なるテレビ業界の環境を体感したのが東京時代でした。
大学を卒業してすぐに入社した共同テレビは、番組の制作から中継、取材まで取り扱う巨大な制作会社で、私が在籍したのはカメラマンら技術スタッフを抱えて番組の取材に派遣する部署でした。
当時のテレビ業界はフジテレビが勢いを増し、バブル期と相まってとても景気が良い時代でした。共同テレビはフジテレビの関連会社で半数以上がフジテレビからの仕事でした。
私たちが参加する番組は、バラエティも多くありましたが、レギュラーで受注していたのは、ニュースとワイドショーで私もカメラマンのアシスタントとして全国各地、数多くの現場に行きました。駆け出しの私は、やること全てが発見であり、勉強でした。これは後にTSKさんいん中央テレビでのニュース取材や番組制作で大いに役立つことになります。
共同テレビ時代で最も印象深いのが「昭和の終わり」をマスコミの一員としてその只中で体感したことです。当時ニュースで皇族方が皇居に入られる映像をバックに昭和天皇のご容態を毎日、伝えていたことを覚えているでしょうか?その映像を撮るために皇居の主要な門に各テレビ局、新聞社が連日、張り番をしていました。
崩御の日まで100日以上やっていたそうですが、私もそのうちの10日ほど、張り番のスタッフとして参加しました。勤務態勢は、泊まり、明け、日勤2日、休み、というローテーションで、泊まりの時は宮内庁の詰め所でザコ寝だったと記憶しています。
張り番の時には、寒い中、外にいるので厚着した上にスキーウエア。バイクで運ばれてくる弁当を食べ、仕事と言えば皇族方や宮内庁長官、女官長の車での出入りを撮影し、それが誰なのかデスクに報告すること。単純作業ではありましたが、歴史の瞬間に立ち会っている実感は確かにありました。
共同テレビ時代
なぜこのような張り番が必要だったのか?当時、張り番だった読売新聞の記者達の手記を記録した冊子から引用すると、こういうことでした。「主要ポイントに張り番を配置しておけば、今、吹上御所で何が起きているかを把握することができる。というより、把握するためには、どうしても、こうした張り番体制を敷かざるを得なかった」(「天皇の門番」読売新聞張り番の会編)
1989年(昭和64年)1月7日。崩御の日は、早朝、会社から自宅に電話があり急いで出社。カメラマンと一緒に、その日の街の様子や動きを取材しました。半旗を掲げたアメリカ大使館、ショールームを消灯し弔意を示すディーラー、世界にニュースを打電する通信社等々。松の内だったこともあるのでしょうが、皇居周辺を除いては、東京の街は静まり返っていました。
その年の春、TSKさんいん中央テレビへの入社のため、私は東洋大学に通った学生時代を含めて6年間暮らした東京を後にしました。引っ越しの手伝いで上京した両親を連れ、戦死した父方の祖父が祀られている靖国神社に参拝した後、皇居を訪ねました。2か月前までマスコミの張り番がいて、テレビ各局の中継車がスタンバイしていた皇居周辺は、いつもの静けさを取り戻していました。
よき仲間や先輩、上司に恵まれた共同テレビ時代は、わずか2年でしたが私にとって業界人生の礎となりました。それから35年、当時の仲間とは今も連絡を取り、一緒に仕事をする仲です。
2度目の東京は一から勉強
四半世紀ぶりの東京は、すぐに私を受け入れてくれました。数日間、暮らしていると20年余の時は瞬く間に超え、共同テレビで働いていたことが、まるできのうのことのような感覚を覚えたのでした。
TSKさんいん中央テレビの東京支社へ赴任したのは2011年(平成23年)4月。東日本大震災の直後で東京も節電が続き、地下鉄の駅などは、夜はうっすらと暗いのが日常でした。
テレビ局といえば、ニュースや番組を作る人たちが花形となりがちですが、様々な人達に支えられ放送ができています。中でも全ての番組の内容から放送時間まで様々なコーディネートをする部署やコマーシャルの時間の配分を決める部署はテレビ局の中枢と言っていいでしょう。
東京支社での私の主な業務はそうした部署のフジテレビや系列局の人たちと自局とをつなぎ、放送に関する様々な情報を収集し、伝える役割でした。長年、報道や番組制作をしていた私にとって畑違いの部署。情報を収集し伝える、といってもただの伝書鳩ではなく「生きた情報」を伝えるためには人を知らなければいけないし、そのためには業務の基礎知識がないといけない、ということで一からテレビの勉強のし直しでした。
ところで、当時私が住んでいたのは豊島区南長崎という支社のある築地から地下鉄大江戸線で一路線、通勤時間が1時間ほどのところでした。単身赴任でしたが家族が遊びに来ることを考えると2部屋は欲しいし、通勤ラッシュを考えたら乗り換えやあまり遠いのは面倒だし、かといって家賃は安く抑えたい、という中で探したらたまたまヒットした物件です。
南長崎というと東京の地名ではまるで知名度がないところですが実際に暮らしてみると日常遣いができる手ごろなスーパーやコンビニがあり、池袋、中野がバスで15分、歩いても40分圏内にあり、大江戸線は都心のどこに行くのにも便利な路線と、非常に住みやすい穴場でした。
お気に入りの場所は「哲学のテーマパーク」
当時、休みの日の楽しみは、中野までの散歩でした。ある日、その通り道に奇妙な公園を見つけました。その名は哲学堂公園。ご存じ東洋大学の創立者、井上円了の思想を形にしたという公園です。
雑誌「東京人no366」によると円了は「哲学の通俗化」と「哲学の実行化」を使命とし、通俗化が東洋大学の前身、哲学館大学の創立で、「哲学の実行化」が哲学堂公園だったそうです。(明治東京に創られた、世界に誇るべき「名園」。進士五十八・文)
私は勝手に「哲学のテーマパーク」とニックネームをつけ、散歩がてらよく立ち寄りました。私の住まいから歩いてわずか10分ほどの場所にあり、緊急避難先にもなっていた哲学堂公園。たまたま見つけた住まいの近くに東洋大学ゆかりの場所があったとは何とも因縁を感じ、もしかしたらこの住みやすい穴場に呼び寄せられたのかもしれない、と感じたものでした。
このような楽しみもあった東京暮らしもわずか2年で本社への転勤を命じられます。振り返ってみれば東京に赴任した2011年は地上アナログ放送から今のデジタル放送に変ったテレビ業界にとって節目の年でした。
一方でテレビ以外に目を向けるとSNSや動画配信時代の幕開けともいえる時期でした。同じ年スマートフォンの普及率が、前年の9.7%から29.3%と大幅に伸び、その後、爆発的に普及していきます(総務省通信利用動向調査)。さらに、YouTubeで一般の人が気軽に動画をアップできる時代も本格的に始まり、テレビ業界を取り巻く環境が少しずつ変化していました。
哲学堂公園
最後の東京ミッションは海外!?
東京支社から本社へ帰り、番組制作やニュースを担当して5年。再び東京支社へ赴任し、新設されたコンテンツ戦略室という部署で業務をすることになったのは2018年(平成30年)でした。
2014年から始まった海外展開事業をはじめ新たなコンテンツビジネスを検討・実践していく業務。わずか5年でテレビ業界は、変わらなければいけない時代を迎えたのです。
コンテンツ戦略室に在籍したのは3年。東京でのコンテンツ制作を通じて多くの人との出会いがあり、また海外展開事業ではマレーシアやロシアで現地の人たちと知り合い、そして何よりテレビ局員では知り会えないビジネスパートナーとのご縁もできました。
2020年(令和2年)にはコロナ禍。一時、東京から満員電車が消えました。マスクでの生活、コロナに罹ったら色々なところに迷惑をかけるかもしれない、という不安(当時、感染が判明した人の家や職場は消毒されました)、海外との行き来はもちろん、東京から地方に撮影に行くのもはばかられ、普段の仕事は週3回リモート勤務と、業務に大きな影響が出ました。その果てには実家に帰ることもままならず、東京支社最後の年はストレスがたまる1年でした。
異動が決まると年齢からして東京で生活するのはこれで最後と思った私は、3月最後の休日に武道館のあるお堀端に向かいました。桜はすでに満開を過ぎ、散り始めの時期を迎えていました。
1983年4月、東洋大学の入学式で初めて見たお堀端の満開の桜を思い出しながら、季節が移ろう時期の変化に、昭和・平成・令和の37年間の時を感じました。お堀は桜色に染まっていました。
澤田 陽
1987年(昭和62年)社会学部応用社会学科
マスコミ学専攻 卒業
安来市宮内町在住