73歳現役アナウンサー。かけがえのない出会いを語る
73歳現役です
私は1976年に法学部経営法学科を卒業し、73歳になる現役のアナウンサーです。 群馬県の赤城山の南麓にある宮城村というところで生まれ、いたって平凡な小中学校時代を送りました。
高校2年生の国語の授業で、先生の指示で生徒が順番に教科書を数行ずつ読み上げていたときのことです。先生から「君の読み方はいいねえ。続けて読みなさい。」と言われ、私だけ多く読まされたことがありました。多分この経験が、自分の読み方や声などに意識を持つきっかけとなり、今のアナウンサーという仕事に繋がったのだと思っています。
大学へ入学後、アナウンス研究会へ導かれる
東洋大学に入学した当初は剣道部に入ろうと部室を訪ねました。が、1日の練習時間が6時間と説明されて、中学から高校まで「なんちゃって剣道部員」だった私には無理だと思い即断念。次にソーシャルダンス部に「君なら優勝できる!」とおだてられ勧誘されたのですが、この甘い言葉には乗りませんでした。
当時の6号館前広場で、マイクを持って賑やかに勧誘していたのが「アナウンス専門研究会」。私はここに興味を持ちました。なぜなら受験勉強をしながらTBSラジオの「パックインミュージック」や文化放送の「セイヤング」などを聞いていた私には、『アナウンス』という言葉に強い関心があったからです。入部の決断に暫し迷いましたが、2週間後位に6号館地下の部室に行き入部を申し出たのでした。
当時の「アナウンス専門研究会」は4年生が2名、3年生が4名、2年生が10数名の構成だったと思います。入部したとき、新1年生は既に10数名、半数近くが入部していて、最終的にその年は20名以上が入部しました。その内、男性は7名。最後まで辞めず共に活動を続けました。今でも良い友として付き合いが続いています。
クラブ活動の内容ですが、昼休みに6号館地下の部室に集合し、発声練習や連絡事項の伝達、情報交換などを行っていました。その後、4~5班に分かれて先輩方から「アナウンスの基礎」の指導を受けたように記憶しています。私にとって東洋でのクラブ活動は新鮮で、楽しいものでした。
白もつ屋と夏合宿 ~クラブ活動の思い出
20歳を過ぎ、仲間と酒を酌み交わす楽しさも覚えました。クラブ活動の、こんな「逸話」をご紹介しましょう。
練習や「ダベリング」=【雑談】を夜6時過ぎまで続けていたある日のこと、男性部員の何人かが「白もつ屋で一杯やりませんか?」と皆を誘いました。白もつ屋というのは、巣鴨駅までの帰り道近くにある居酒屋です。
しかしなんと、女性陣はこぞって「喫茶店」に行ってしまったのでした。残された男性部員たちはショゲながら「白もつ屋」さんに行きました。私はお酒を飲む楽しさを覚えた頃だったので「白もつ屋」を選択し、「もつ煮」と「ホッピー」などいろいろなお酒を楽しみました。
さて、なぜ女性陣は「喫茶店」を選んだのか?
それは当時アナウンス専門研究会の会長だった大塚富夫(おおつかとみお)先輩が、実はお酒が苦手で“喫茶店に行く側”だったからなのです。なにせ大塚先輩の話術は秀逸で、一緒にいれば話題が豊富で、誰もが楽しい充実した時間を過ごせると知っていたからでした。大塚先輩は現在もIBC岩手放送で、番組を持たれ現役アナウンサーとして活躍されています。
夏合宿も「素晴らしい思い出」です。入部してすぐの夏合宿はたまたま私の郷里、群馬県の浅間山麓「新鹿沢(しんかざわ」でした。新鹿沢は高原にある自然豊かな温泉地です。クラブ初の放送局アナウンサーに合格された山形テレビ(YTS)の田岡 明(たおかあきら)さんも参加され、貴重なお話を聞かせてくださいました。
2年生の時には、当時、淡路島の「青年の家」に勤務していたクラブの創設者のひとり、斎藤 哲瑯(さいとうてつろう)さんを訪ねて淡路島で合宿を行いました。斎藤さんは、川村学園女子大学名誉教授※1で、子育て相談など教育の場に関わっておられました。
※1斉藤さんは川村学園女子大学名誉教授でしたが、現在は退官して故郷の島根県で過ごされています。
活躍する仲間たち
私と同時期に東洋大学に在籍し アナウンサー試験に合格してアナウンサーになった顔ぶれもここで少しご紹介しましょう。ショーステージ研究会からNHKに合格した山下 信(やましたまこと)さんは、現在NHKエグゼクティブアナウンサー・東洋大学非常勤講師としてご活躍中。そして、テレビ新広島に合格した神田 康秋(かんだやすあき)さんです。
私と同じアナウンス研究会から山梨放送に合格した伊藤英敏(いとうひでとし)さんは、今も日テレnews everyのナレーションや数々のCMなどで活躍中。またラジオ関東(現 ラジオ日本)に合格した武田肇(たけだはじめ)さんは、競馬中継アナを経て 現在FM世田谷で朗読番組等を担当、など皆さん現役で活躍されています。
報道アナウンサーそして地域の発信者として
さて私はというと、これまでにテレビ局とラジオ局のアナウンス業務を経験しています。 まず報道する側として私が取材やニュース読みなどで携わった主な事件・事故を振り返ってみましょう。聞いたことのあるニュースもあるかと思います。
■静岡県民テレビ時代
1979/7/11 東名日本坂トンネル事故 3日間燃焼 死者7名、焼失車両173台
1980/8/16 静岡駅前地下街ガス爆発事故 死者6人 けが人223人
■東日本放送時代
1983/10 日本初 東北大学体外受精に成功 鈴木雅州教授
1984年 松山事件(4大死刑冤罪事件のひとつ)斎藤幸夫氏と実家取材
その後、1985年に地元ラジオ局「FMぐんま」に入社し、報道部長や東京支社長を務めました。FM局としては全国初の「高校野球中継」を立ち上げたのですが、この「高校野球中継」は現在も継続されています。
アナウンサーの卵に向けて「FMぐんまアナウンスセミナー」も設立しました。スポーツ関連では高校野球実況をはじめ、ママさんバレーボール、高校柔道の実況も経験、一度だけですが、ゲートボールの中継も担当させていただきました。
報道現場でも、地元ラジオ局の仕事でも、アナウンサーにならなかったら経験できなかった事柄が数多くあります。
今、仕事と地元の活動に情熱を傾ける
現在の仕事は、定時ニュースのアナウンサーやコマーシャル、番組コーナー出演の他、ニュースや天気予報などを整理してしゃべり手に渡すデスク業務などに携わっています。 現在の勤務体制は週4日間だけなので、自分自身に使える時間が多くあるのが有り難いです。
自分自身に使える時間は、地元の芸術や歴史にかかわる活動にあてています。ひとつは詩画(しが)の制作活動です。地元群馬の詩画作家「星野富弘*2」さんの作品に感銘を受け、毎年「星野富弘美術館詩画公募展」に作品を出品しています。公募展は今年で第12回を迎えますが、第2回では優秀賞をいただきました。
もうひとつが高崎市の「王の儀式再現の会*3」のボランティアです。ここでは考古学の研究成果として、毎年10月にボランティアによる再現劇を上演しています。学芸員の指導を受けながら、私も5世紀の古墳時代の装束で舞台に立っています。
*2 星野富弘(星野富弘) 1946-2024 群馬県出身の詩画作家。事故により手足の自由を失い、口に筆をくわえて文や絵を書く。故郷である群馬県みどり市にある「富弘美術館」では毎年詩画の公募展が開催されている。
*3 王の儀式再現の会 高崎市の「かみつけの里博物館」が主催する定例行事。5世紀後半(古墳時代)の考古学博物館で、研究成果として創作した「王の儀式」を再現劇として上演する。ボランティアは演技の練習だけでなく衣装や道具作りを通して歴史を学べる取組みとなっている。
生きる方向を与えてくれた大切な母校
これから何歳まで現役を続けられるかわかりませんが、まだ満足はしておりません。何より東洋大学に入学していなければ、そして「アナウンス専門研究会」に出会ってなければアナウンサーにはなっていなかったでしょう。これからも経験を活かして様々なことに挑戦し、人々の役に立ちたいと思っています。東洋大学は私にかけがえのない友人たちと生きる方向を与えてくれた大切な母校です。
最後に勝手にお名前を使わせていただいた 斎藤さん、田岡さん、大塚さん、山下さん、神田さん、伊藤さん、武田さん 大変失礼いたしました。ご無礼をお許し下さい。
母校の記念碑前にて
1976年
法学部経営法学科卒業
大崎 修