「我に天佑あれ、ネバーギブアップ」
何故東洋なのか?
私は1978年(昭和53年)に東洋大学法学部経営法学科に入学いたしました。大学を選ぶ、進学先を選ぶというのに、優先順位は色々あると思いますが、私は当時としては入学に係る費用が他の大学に比べ安かったというのが東洋大学を選んだ一番の理由でした。
山陰の一地方都市から関西を通りこして、東京に進学するのは、関東近辺にお住いの方には、なかなか実感が湧かないと思いますが、時間的にも経済的にも「エイヤー」というジャンプが必要なのです。今は、出雲縁結び空港から、羽田まで約1時間30分です。50年近い前は寝台特急出雲を使っても12時間近い旅です。交通費も大変でした。
現在、島根・鳥取では山陰新幹線を建設しようという運動が有ります。人口減少の山陰にそもそも新幹線必要?という意見も有りますが、青年期に東京で暮らしたものが感じる、大都市への憧憬が「山陰新幹線建設促進」の根底にあるのかもしれません。何れにしても東京はあらゆる意味で遠い存在でした。
図書館での死闘
さて、在学中の思い出を振り返ります。1978年は、朝霞校舎開校初年度で1年間東武東上線で通学し、2年目からは白山校舎に移りました。下宿は西武池袋線東長崎駅から徒歩15分の新宿区西落合で、目白通りが走り、哲学堂公園がある住みやすい街でした。白山校舎は坂道が石畳で、歴史を感じさせるような建物があったと記憶しています。
学食は歴史を感じるというよりは、古い半地下食堂で現在の「学食ランキング殿堂入り」のようなおしゃれな食堂と比べようもない学食でした。学校は好きでしたが、勉強は苦手でした。従って何を学問として勉強していたのか覚えていませんが、大学へは休まずに行き、授業に出席したことは我ながら立派なものだと自負しています。
授業内容がその後の人生で,役に立ったかな?と自嘲的に思う事も有りますが、3年から4年にかけての死にもの狂いの図書館通いは、学生が社会人へステップアップするための試練の2年間でした。図書館で何を勉強したのかと振り返れば、公務員試験に合格するための勉強でした。
実務教育出版の教材を手に「図書館で立てこもり」、問題集とのにらめっこでした。大学での授業はほぼ皆勤でしたから、それがベースになり、公務員試験の問題集に取り組むことがさほど苦痛ではありませんでした。いつの時代にも基礎学力と、ネバーギブアップの精神は大事なことです。
出雲大社から神宮へ!馬庭くんへのエール
学生生活ではこれといった思い出はありませんが、印象的なシーンは東都大学野球リーグの優勝決定戦を神宮球場で応援したことです。このシーンは、今までに校友メッセージを寄稿された校友の皆さんも書いておられますが、思い出深い神宮であり、白山通りでの行進でした。同時代を生きたという感じです。
野球部と言えば、昨年夏の甲子園高校野球で早稲田実業を破り、ベスト8へ進み「島根県立大社高校旋風」を巻き起こした馬庭優太投手と園山純正内野手です。
この春、東洋大学に入学すると聞き、島根県と東洋大学が身近に感じられました。神宮球場で投げる馬庭君やバンド職人の園山君の姿を見たいものです。「しまねっこ」のような青年達だと思いました。
37年の公務員生活を振り返る
1982年(昭和57年)に公務員試験に合格し、出雲市役所に勤務する事になりました。それ以降、12の部署を経験した37年間の公務員人生でした。
印象に残っている部署は、秘書室と文化スポーツ課です。今では考えられない事ですが、帰宅時間が毎日23時過ぎ、時々日付け変更線を超えていました。1989年(平成元年)頃の三共製薬のドリンク剤・リゲインのCMソング「勇気のしるし」の歌詞にある、「24時間戦えますか」を体現していました。今ではブラック企業ですね。(参考までに三共製薬は、この歌の主旨はオンとオフを使い分けて働く事ですとコメントしています)。
文化スポーツ課では、出雲全日本大学選抜駅伝競走(立ち上がりは:「神伝」と言っていましたが)を始め、様々なイベントに関わりました。また、秘書室では家族といるより、当時の西尾理弘市長といる時間の方が長いという状況で、月に一度は市長と共に上京し、自治省・文部省・建設省を訪問していました。
振り返ってみますと、私の場合は、いわゆる『ザ・公務員』という仕事ではなく、『営業マン』的な生き方だったかと思います。なお、西尾元市長は昨年11月に83歳で亡くなられましたが、口癖は「前進・前進又前進」でした。
あのエネルギッシュな姿勢は、良き先輩として上司として、指導者として私にとっては忘れられない学びの対象でした。
チャレンジする青年と共に働きたい
2019年(令和元年)に出雲市役所を退職し、縁あって出雲市内のホテルに勤務しました。同じサービス業とはいえ、公務員からホテル勤務という、少々異色な経歴ですが、これはこれで私の人生かなと思っています。
私が勤務するホテル(ニューウエルシティー出雲と言いますが)の隣接する建物は、出雲市民会館です。ここでは様々なイベントが開催されますが、年に一度の出雲全日本大学駅伝の開会式が実施されます。
駅伝に参加する母校東洋大学の選手を見る機会も有り、その爽やかさに青春の一ページを思い出します。今年の出雲全日本駅伝にも来る予定ですが、皆で応援をしたいと思います。
最近、少子化を迎え、島根もその傾向に歯止めはかかっていません。ホテルを経営する母体は、LPCグループといいますが、業種はアミューズメント・ホテル・飲食・不動産管理・広告代理業・スポーツジム・食品卸と多種多様です。地方のテレビを通じて企業CMを流していますが、キャッチコピーは「島根で働きたい」・「やりたいことが,ふくらむ会社」・「あなたの好きが力に変わる」です。
人口減少にチャレンジし、Uターン・Iターン・Jターンで島根で働く、そんな後輩が沢山出れば、テレビCMや校友メッセージへの寄稿に意義があったと感じます。
少子化は大学の運営にも厳しい状況が予想されます。歴史ある東洋大学が100年後も東洋大学として存在している事を願ってやみません。
ガラシャを思う
最後に、私も人生の終わりの時期に向かっています。終わりかなと思いながら、もうひと踏ん張りと思う事もあります。様々な思いが錯綜しながら、次のような句を思いだします。明智光秀の三女、細川ガラシャの句でこれで終える事が出来ればと考える今日この頃です。
「散りぬべき 時知りてこそ世の中の 花も花なれ 人も人なれ」
森広 智
1982年(昭和57年)法学武経営法学科卒業
出雲市小山町在住