想いのバトン渡し合う。教壇で、市議会で、どこでも
父と本のバトン。愛情深く育てられた家族との日々
どんなに背伸びをしても港を見ることができない、緑豊かな横浜市にあるマンモス団地の一角に20年近く、家族と共に暮らしていました。特に裕福でもなく、平均的なサラリーマン家庭でしたが、私も弟も、愛情深く育ててもらったと思います。
家庭を大事にする父は、私が小学校に入学してから毎月の給料日に本を必ず1冊買ってきてくれました。どうも会社の取引先の方に勧められたようです。1冊目は若草物語。個性豊かな4人の姉妹と愛情あふれる両親の家族物語に胸躍らせながら読んだことを思い出します。その後は、野口英世や徳川家康といった伝記ものから少年探偵団シリーズまで、いろいろな作品を選んでくれました。
気づけば読書が習慣化し、社会人になっても往復の通勤時間は読書にあてるようになり、読み終えた単行本を今度は父に勧めるようになりました。親子の本のバトン渡しが入れ替わっていました。
女子の大学進学率13~15%程度。変わりゆく時代の中で受験
私の大学受験当時、4年制大学進学率は男子で約40%前後、女子の進学率は約13~15%程度でした。通学先の高校は進学校、女子学生の大学進学者はそれほど珍しくはなかったのですが、まだまだ短大への進学や就職を選ぶ女性は多かったように思います。
それでも「俺は、財産は残してやれないから学歴だけは子どもたちに残してやりたい」という父の想いや母の応援もあり、無事に大学受験を迎えました。4校受験して、3校は不合格。唯一、合格したのが東洋大学でした。当時の東洋大学は歴史もあり、特に学校関係者には信頼の高い大学でしたが、華やかさはやや欠ける印象でした。
一方で、時代はバブルに向かって流れ始め、女性の進学率は高くなかったものの、深夜番組を席巻した「女子大生」に注目が集まり始めていました。予備校に行く余裕もなく、1年間宅浪で他の大学を目指そうかと思っていた頃、高校の担任から「当然、東洋行くよな」という電話がありました。
「浪人しようかと思います。」と答える私に、ひとこと「浪人しても来年東洋に受かるかわからないぞ」と。この時に言われた言葉が決め手となりました。先生は女性の進学、浪人ということだけでなく、堅実な東洋大学そのものを評価していました。
大学時代の出会い。仲間たちとの日々は一生の宝物
先生の勧めもあって、東洋大学へ入学。晴れて女子大生に。親に学費を出してもらっているので、交通費とお小遣いを自分で稼ぐべく、週5日はアルバイトに精を出すと同時に、大学では「白山グリークラブ*1」に入会し、学業・グリー・アルバイトと忙しい日々でした。
大学生活4年間で、家族よりも長い時間を過ごしたグリーの仲間たちは、今でこそ会う機会は減りましたが、出会えた一生の宝物だと思っています。「もし、人生をやり直せるならどこの時代に戻りたい?」そう聞かれたら私は迷わず、東洋大学で過ごした4年間、と答えるでしょう。受験後、入学することさえも悩んでいたのが噓のように、これまでの人生で絶対に間違っていなかった選択の一つが東洋大学への進学でした。
*1東洋大学白山グリークラブ、通称白グリ。60年続く歴史ある大学公認の混成合唱サークルで、黒人霊歌を中心に様々なジャンルをレパートリーに活動中。2024年12月、コロナ禍を経て数年ぶりの定期演奏会を再開。
https://www.instagram.com/hakuglee_official/
白山グリークラブの仲間と
自由に大胆に語る。先輩教師の言葉、今も人生の柱に
就職活動は大学入学の目的だったマスコミ中心でした。今思うと、恥ずかしくなるくらいに大それたこと。それでも当時は周りの誰もが結構大きな夢を語っていたような気がします。
2024年の流行語大賞になった「ふてほど*2」のように、昭和の社会は令和の時代から考えると「不適切なこと」だらけだったかもしれませんが、若いからこそ大きな夢を語る、空気を読むこともそれほど求められていなかったように思います。
一般企業に内定をいただき、そのままOLになる。そう思っていましたが、卒業直前に私立学校での採用が決まり、教壇に立つことになりました。その後に転職した神奈川県立高校では、教員も生徒も共に成長する、といった雰囲気があり、まだ20代前半の私にとって、先輩教員の言葉1つ1つが人生訓として今も心に刻まれています。
例えば、子どもを抱えた教員が休みがちになり周りに気を遣いだしたときのことです。子育てが落ち着いたある教員から「俺たちも子育て中は散々周りに迷惑をかけてきた。今度は俺たちが次の世代にお返しをする番だ。その次はお前たちの世代が助けてやればいい。そうやって繋いでいくんだ。」と教えてくれました。
当時はまだピンとこない私でしたが、後に子育てや女性の働き方について常に柱になる言葉となりました。
*2 2024年放映TBS系のドラマ「不適切にもほどがある!」の略称。令和と昭和のタイムスリップを軸に繰り広げられ注目された。「ふてほど」は2024ユーキャン新語・流行語大賞で年間大賞を受賞した。
大学の卒業アルバム
ワンオペの子育てから現場復帰、変化を模索する
結婚後、第一子を妊娠した途端に切迫流産になりかけ、医師からは絶対安静を言い渡されました。ありがたいことに同僚の教員が色々と気遣ってくれたことで、出産の1ヶ月前まで教壇に立つことができました。
出産を機に退職することになりますが、当時(およそ30年前)は今ほど「共働き」が多くなかったように思います。子育ては今でいうところの「ワンオペ」。その状況を孤独と捉えることもないくらい、女性ひとりで子育てすることに、当時は光が当たっていなかったように思います。
金融機関に勤め、朝早くから夜遅くまで働く主人を見ていたら、とても仕事と子育ての両立を考えることができず、恐らく教壇には戻らないだろうと漠然と感じていました。
ところがです。子供が小学校に通っていた頃のこと、子供がいじめに遭い、今の教育はどうなっているのか自分の目で確認したくなりました。そして、戻らないだろうと感じていた教壇に復帰することを決断したのです。
変わりつつある教育現場で、「発達障害」という言葉が使われ始めました。子どもたち1人1人の対応をこれまでとは異なる視点で考えなければいけないため、これまでの経験が通用しないことに驚きつつ、同僚たちと相談しながら進める日々が続きました。
教員時代
教育現場の状況を伝えたい、思いひとつで市議会議員へ
そんなある日、道を歩いていると1枚のポスターが目に留まりました。
八王子市議会議員選挙候補者募集。そこに書かれていた「ご意見をお聞かせください」の文字。私のように何も持っていない人が議員になることはないだろうけれど、今の教育現場の状況を政権与党に伝えたい、その思いで指定されたテーマの論文を一気に書き上げ、提出。そして候補者に当選しました。
後に所属した会派では、25年間も女性議員が所属していない状況でした。政府が女性活躍を前面に押し出し、女性議員を増やしていこうという政策と相まって、私の立候補が決まったのです。
それだけ力を入れているなら政党のテコ入れもかなりなものと期待していましたが、見るとやるとは大違い!何から何まで自力!初めてだらけの連続でした。
いきなり駅に立ち、知らない人たちが通り過ぎる横で、マイクを持って話し出す。教師として話すことに慣れているとはいえ、それはあくまでも生徒の前でのこと。ジロジロ見られたり、訳の分からないことも言われたりしました。普通に暮らしていた一般市民には、とても馴染まない活動だったことは言うまでもありません。
所謂、地盤・看板・カバン(地域での組織力・知名度・資金力)など、持ち合わせるすべもありません。ただただ、これまでの自身の教育・子育ての経験を一市民としてどのように市政に活かしていくかを市民に訴えていくことだけでした。
結果として、無党派層の多い地区でありながらも市議会議員に当選させていただくことができました。もし議員になるためのノウハウを最初に見聞きしていたら、これほどまでに大それた決断は出来なかったと思います。
議員としての8年間。市民・行政・政治の連携で光を見出す
議員活動は、遠いつながりを頼りにお訪ねしたり、言いがかりをつけられたりと、挑戦しなければ恐らく体験しなかったことばかり。それでも子どものいじめをはじめとした教育現場で起きている多くの問題、非正規雇用の問題・制度の間で支援を受けられず苦しむ人達の存在が私を突き動かしたのではと自分自身を分析しています。
後ろ盾もないけれど色のつかないまっさらな選挙の素人を、何とか政治の場に送り出そうと期待を寄せてくれる方々がひとり、ふたりと増えていくことが、当時の私の背中を押してくれたのだと思います。
二期8年間、市議会議員を務めた中で、多くの人と知り合えたことは私の宝物となっています。議員になっていなければ、これだけ多くの人と関わることができなかったはずです。
行政も様々な課題解決に何とか着手したいという思いはあっても、なかなか上手く進まないことは多いものです。活動の中で意識したのは、できないことを、ただ責めるのではなく、市民・行政・政治が一体となって連携していくこと、そして光を見出していくことでした。
その後、残念ながら落選という形で議員としての仕事は終わりましたが、教師として大事にしていた生徒たちと別れて、まったく知らない、特殊な政治の世界に身を置いたことに後悔はありません。それぞれの場面で得た体感は大きな学びでした。
駅頭で話す筆者(京王線長沼駅にて)
百聞は一見に如かず。社会を変える糧、学んで
現在は医療法人で人事採用の職に就き、主に新卒採用を担っています。近年の傾向として卒業後3年で転職する割合が全体の約3割という状況が続いているだけでなく、30歳前後の波も高くなっています。
その状況を分析して見えてきたのは、「どんな業種に就職しても、ここだけは自信をもって話ができる、といった専門性を持つこと」が必要であるということでした。
新卒の皆さんに勧めたいのは、色々な業種を見学したり、体験することです。今はインターネットで何でも情報が取れる時代ですが、やはり百聞は一見に如かずだと思います。
社会は本当に多種多様で、年齢・境遇・社会的背景の違う人たちと接する機会が多くなります。これまでの慣習を時代ごとに変革してきた方々に感謝の思いを持つと共に、次は自分たちがその慣習を担い、不合理であればそれらの問題を時代に合わせて変革していって欲しいです。すぐには上手くいかなくてもいい、時代を切り開く力が育っていくような学びと体験を、ぜひ東洋大学で培っていただきたいと思います。
「諸学の基礎は哲学にあり」 迷っても選んだ道を信じて
今日の東洋大学は、都内でも有数の綺麗な校舎となり、後輩の皆さんのご活躍や大学に関わる方々のご尽力で知名度が上がりました。私が学生だった頃はやや華やかさが足りない印象で、「日東駒専」の東は、神奈川県にある某大学で東洋ではないでしょ、と言われたことも・・・教員時代は、「東洋大学っていい大学だけど、東洋大学出身の教員に会ったことないな~」と面と向かって言われたりもしました。
でも、社会で活躍するOBOGは、真面目に一生懸命仕事をする、派手に立ち回ることはできなくてもコツコツと仕事を仕上げ、信頼を増していく「いぶし銀」のような存在で、気がつくと指導的地位にいる、そんな人たちばかり。知らず知らずのうちに井上円了先生のお言葉、「諸学の基礎は哲学にあり」が在学中に身についているのかな、と思うほどです。
知らない世界に足を踏み入れることに躊躇しても、知らなかったからこそ挑戦できることはたくさんあり、一生懸命な姿を見ている人は必ずいるものです。人間関係が希薄になってきた、と言われる昨今ですが、人はまだまだ捨てたもんじゃない、自分の経験を信じて突き進んで欲しい。
何か迷うことになっても、すぐには結果が出なくとも、自分の選んだ道に間違いはなかった、そう思える日が必ず来る。どんなに苦しい状況にあっても必ず手を差し伸べてくれる人、応援してくれる人、背中を押してくれる人がいるはずです。
東洋大学に進まなければ、私の人生は全く変わったものになっていたでしょう。進学せず主人と出会わなければ、八王子に住むこともなかったし、人生を変えたポスターを見ることもなかったでしょう。一つの歯車が変わってしまえば、全く違った人生だったと思います。人生のタイミングとはそんなものかもしれません。
私の経験が誰かの役に立つのかは分かりませんが、こんな世界に挑戦したい、と思う学生のみなさんや卒業生の方々の参考になれば幸いです。私も現状に留まることなく、まだまだ懲りずに人生の経験を積み重ねていきたいと思います。
昭和63年
文学部国文学科卒
梶原 幸子