母校支援

挫折と挑戦の36年。見つけた「天職」―社会人編

前編の「学生編」では、カルビーCHRO人見氏の組織マネジメントの原点となった、東洋大学時代のテニスサークル「レスマ」でのエピソードをお届けしました。崩壊寸前のサークルで、さぼり気味だった人見氏がまさかの会長に就任。仲間と力を合わせて80人規模へと立て直し、リーダーとしての在り方を学んだ軌跡を振り返りました。

続く後編では、この大学時代の学びを土台に挑む、社会人としてのキャリアと企業変革への挑戦に迫ります。(前編はこちら

自分で決めて、自分で進んだ37年のキャリア

社会に出てからの37年間、私は失敗を過度に恐れず、未経験で難しそうな仕事にこそ、あえて挑戦してきました。心が折れそうになった時期もありましたが、社内外の仲間に支えられながら、何とか乗り越えてくることができました。周囲から信頼してもらえるよう、自分に任された仕事一つひとつに真摯に向き合ってきたつもりです。

大学4年になると、就職活動が始まりました。何から手をつければよいのかも分からず、まさに暗中模索の状態でしたが、私はまず「自分なりの軸」を持つことにしました。アルバイト経験を通じて、世の中にはいわゆる「学歴社会」があることも感じていました。

そこで、「おそらく自分は大手企業には入れないだろう。けれど、あまりに小さな会社では長く働き続けるうえで不安がある。ならば大手企業の子会社を目指そう」「人と話すことが好きだから、職種は営業がよいだろう」といった具合に、自分なりに考えを整理していきました。そして最終的に、S社への入社を決めました。

今振り返れば、東洋大学の学生だから大手企業に入れない、ということは決してなかったと思います。実際には、自分の自信のなさを「学歴社会」のせいにして、逃げていただけだったのかもしれません。東洋大学の学生としてもっと胸を張り、大手企業にも挑戦していたらどうなっていただろうかと、今でもふと思うことがあります。

もっとも、当時の私は、S社にそれほど強い志望意欲を持っていたわけではありません。面接を申し込んだことすら忘れていたほどです。ある朝、布団の中で寝ていると採用担当者から電話がかかってきて、慌てて面接会場へ向かいました。

汗だくになって平謝りしながら駆け込み、電車の中で必死に考えた志望理由を伝えたのですが、その必死さが多少なりとも評価されたのかもしれません。もっとも、あの時代がバブル期でなければ、そもそも電話はかかってこなかっただろうとも思います。

なぜ自分だけが――不本意だった最初の配属先

 希望していた営業職はかなわず、最初の配属先は与信管理部門でした。人事部門に尋ねたところ、簿記の資格を持っていたことが理由だと聞かされました。同期入社の総合職は私を除いて全員が営業に配属されており、その事実もあって、当時は「簿記など勉強しなければよかった」とさえ思いました。

配属後の半年間は、仕事にまったく身が入りませんでした。毎日定時で切り上げては飲み歩く、そんな生活を続けていました。ところが半年もすると、営業に配属された同期から初受注の知らせが届くようになります。

もちろん祝福する気持ちはありましたが、その一方で、「今、同期の中で一番仕事ができていないのは自分ではないか。これはあまりにも格好悪い」と、強い焦りを覚えるようになりました。

そんな折、久しぶりに実家に帰って仕事の話をしたところ、普段は寡黙な父から思いがけない言葉をかけられました。

「文句ばかり言っていないで、一生懸命やってみろ。石の上にも三年だ」

その一言で、はっと目が覚めました。本当にその通りだと思いました。そこからは、遅れを取り戻そうと必死に働くようになりました。

入社2年目に入って間もなく、部長からあるプロジェクトのリーダーを任されました。期間は9か月。かなり大きな投資を伴うもので、他の大手商社にもまだ例のないシステムを社内に構築するプロジェクトでした。メンバーは、システム会社からの常駐者を含めて5名。若手の自分にとっては、非常に重い責任を伴う仕事でした。

私は意気込んで取り組みましたが、プロジェクトは思うようには進まず、時間だけが過ぎていきました。次第に私は苛立ちを募らせ、ミーティングでの口調もきつくなっていきました。

6か月が過ぎたある夜、帰宅してベッドに横になり、ブラインド越しに月を眺めながら、なぜプロジェクトがうまく進まないのかを考えました。そこでようやく気づいたのです。原因は周囲ではなく、実力不足に目を背け、他人のせいにしていた自分自身にあるのだと。

翌朝、私はメンバーに集まってもらい、素直に頭を下げてお詫びしました。そして、自分の未熟さを認めたうえで、力を貸してほしいとお願いしました。

メンバーは皆、「やっと分かったか」という表情で私を見ていました。しかし、その瞬間から、それまでどこかばらばらだったチームは一つになり、仕事はそれまでとは比べものにならないスピードで進み始めました。結果として、プロジェクトは納期内に無事完了しました。

この経験を通じて私は、個人が集まってチームになったときに生まれる力の大きさ、そしてリーダーの姿勢がチーム全体に与える影響の大きさを、身をもって学びました。

追い打ちのような人事異動、それでも任された仕事に向き合った

与信管理の重要性や、商社ビジネスの醍醐味が少しずつ分かってきた入社2年目の1月、私は部長に呼ばれました。そして突然、「君は人事に異動だ。育てていこうと思っていたので残念だが、承認した」と告げられました。

実は私は、それまで「人事にだけは行きたくない」と思っていました。人事部門に対して、部屋にこもってひそひそと話をしながら、社員の評価や給与を決めている部署、という勝手なイメージを抱いていたからです。

もちろん、会社の辞令である以上、行かないという選択肢はありません。自分はまた営業が出来ないのかと思う一方で、「やってみれば案外面白いかもしれない」とも思いました。

当時のS社は、社員数250名弱の会社でした。人事部門では、親会社からの出向者が本部長と部長を兼務しており、私はその下で筆頭課員のような立場として働くことになりました。そこからの9年間は、とにかくがむしゃらでした。担当領域は非常に広く、常に多忙を極めていました。

しかも、体系的に仕事を教えてくれる先輩がいたわけではありません。それでも様々な問題が起こり、全国から問い合わせが来ます。そこで私は、隔週発行の専門誌『労政時報』を9年間欠かさず読み続け、自分で学びました。また、衛生管理者の資格も取得し、労働法全般についての知識も身につけていきました。

振り返れば、この時期に必死に打ち込んだことが、人事としての基盤を形づくったのだと思います。私は、若いうちこそ、自分に任された仕事を一つひとつ全力でやり切ることが大切だと考えています。

異動や転職によって部署や会社が変わるたびに、それまで築いてきた人間関係はある意味でリセットされます。私は、その都度、任された仕事を着実に遂行し、周囲から信頼を得られるよう努めてきました。

「もっと広い世界を見てみたい」心を動かした一冊の本と踏み出した一歩

人間関係に恵まれ仕事も楽しかったのですが、20代後半から漠然と「もっと広い世界を見てみたい」「大きな企業で自分の力を試してみたい」と思うようになりました。頭の中で転職の2文字が次第に大きくなっていきました。

ある日の仙台出張で「チーズはどこへ消えた」という本を新幹線の中で読みました。「周りの環境は変化するから、同じところに留まることにもリスクがある。ここから動くことにもリスクがある。どちらのリスクをとるのか」という内容でした。

3年近く悩んでいた私は「やらずに後悔するなら、もしかしたら失敗するかもしれないけどチャレンジしてみよう」と転職を決めました。私にとって運命の一冊、運命の出張となりました。

転職先探しはかなり苦労しました。10社以上は応募しましたが全て書類選考で不合格。エージェントからも「あなたでは大企業には入れない」とバッサリ。自信を失いそうになりましたが、書類選考さえ通過できれば面接で勝負できるし、合格できるかもしれないと思っていました。

半年くらい経過し諦めかけていた頃、K社から人事部員としての面接連絡があり、遂に運命の会社が現れたと思いました。自然体で面接を受けようと決めて挑んだ1次面接、最終面接とも無事に合格し試用期間1年間の契約社員として入社しました。

私の実力が会社の期待値に届かなければ1年限りで終了というリスクもありましたが、自分を信じ、K社を信じることにしました。入社して驚いたのはとても自由な社風です。社員同士が友達のように仲が良く、前職では少なかった女性総合職が各職場でいきいきと働いている姿に衝撃を受けました。

1か月後、大阪本社での勤務辞令。早いうちに役員に顔を覚えてもらうための人事部長のご配慮でした。転勤早々に戸惑ったのは関西弁。まずスピードが速くて聞き取れない。会話をしていても「オチがないやん」「東京モンはおもろないな」と言われます。

社員食堂で、皆が普通にお好み焼きをおかずにご飯を食べるのにもかなり驚きました。私は密かに関西弁辞典を買い込んで勉強し、3か月位で相手にがっかりされない程度のオチを混ぜた会話が出来るようになりました。

また、人事部長の計らいで経営会議にも同席しましたが、そこにもボケ・ツッコミの光景があり衝撃を受けました。約1年が経過し正社員に登用された時は、心底ホッとしました。

K社の人事部門では人事制度企画や採用、育成の仕事をメインで担当しました。H原さんという器の大きな上司から、愛情をもって部下と接する、部下の長所を活かす、とことん深く考えて答えを出す等、多くを学びました。

自分のキャリアは自分の意思で切り拓く――自ら手を挙げた上海駐在

私は、自分のキャリアはできる限り自分の意思で築いていきたいと考えています。そのほうが、仕事は面白くなるからです。これまで、マーケティング子会社への出向(人事)、上海駐在(人事)、広報、そしてマーケティング子会社への再出向(営業)と、さまざまな仕事を経験してきました。中でも、自ら手を挙げて実現した上海駐在は、異なる文化、歴史、価値観を持つメンバーと共に働く、かけがえのない経験となりました。

上海では、工場新設に伴い、工場勤務社員を対象とした人事制度や育成体系の構築に携わりました。現地の中国人スタッフ同士は非常に仲が良く、休日にも集まってカラオケに行くほどでした。

私は、何とか仲間として認めてもらいたい一心で、中国語の歌を数曲覚えて一緒に歌いました。また、「これは日本人なら誰でも知っている体操です」と紹介し、毎朝の朝礼で一緒にラジオ体操も行いました。

赴任して間もなく、尖閣諸島問題が起こり、日中関係は急速に悪化しました。私は、中国で何が起きているのかを把握し、現地で働く社員たちの安全を確保する役割を担っていました。

しかし、赴任したばかりで中国語も十分にできず、情報収集には限界がありました。その一方で、日本本社からは現地の状況や他の日系企業の動向について報告を求められ、非常に苦労しました。

そこで私は、「他の日系企業も同じように困っているのではないか。互いに情報を共有できれば助けになるのではないか」と考え、上海に拠点を置く日系大手企業に声をかけて、「上海日系人事部長の会」を立ち上げました。

当初は5社でのスタートでしたが、その後は約20社にまで広がりました。私は、肩肘を張らず、率直に話せる場にしたいという思いで運営しました。会社は違っても抱える苦労には共通点が多く、自然と気の合う仲間が集まり、まるで同じ会社で働いているかのような関係が築かれ、今でも定期的に活発な情報交換を続けています。

当時は、日系企業や日本料理店が襲撃される事件も相次いでいました。そんな中、中国人スタッフたちから「人見さんも怖くて不安でしょう。でも、私たちが絶対に守るから大丈夫です。安心してください」

と言ってもらえたときは、本当に心強く、胸が熱くなりました。異なる国や文化の中でも、信頼関係は築けるのだと実感した瞬間でした。

上海では、東洋大学の卒業生たちとの交流も生まれました。上海には多くの日本人が暮らしており、日本人向けのフリーペーパーも発行されていました。あるとき、その中に「東洋大生集まれ」という文字を見つけ、私はすぐに代表者へメールを送り、会合に参加しました。

その会合には8人が集まっており、卒業年次も学部もさまざまでしたが、リーダー格のM野君、S田さんをはじめ、皆とても温かい人たちでした。その後、この集まりは校友会上海支部として認可されました。海外の地でも母校とのつながりを感じられたことは、私にとって大きな喜びでした。

スケールが大きく、想像以上に近代的だった上海

新たなチャレンジ――広報部門、そして営業部門へ

 上海駐在を終えるにあたり、私は担当役員にお願いし、人事部門ではなく広報部門へ帰任させてもらいました。海外人事まで経験し、人事の仕事はひと通りやり切ったという思いがあったからです。

広報部門にはお客様相談室もあり、社内外の情報の流れを一元的に統括していました。私にとっては未経験の領域であり、まさに一からの勉強でしたが、意欲的なメンバーに支えられながら取り組む中で、対外的にはブランドランキングの向上、社内的には従業員満足度の向上という成果につなげることができました。そして、K社での最後のキャリアとなったのが営業部門です。

社命による40代後半での大きなキャリアチェンジには不安もありましたが、一方で、以前からやってみたかった営業に携われることへの高揚感もありました。とはいえ、営業部門に入って当初は苦労の連続でした。

膨大な商品の特徴や価格・原価、売上や利益を計上する仕組み、物流の流れ、さらには社内各部門の役割や連携など、覚えなければならないことがあまりにも多かったのです。

私は関西エリア全域の責任者を任されましたが、営業経験のない自分にその役割が務まるのかという不安は常にありました。メンバーたちも、しばらくは「お手並み拝見」といった様子で、距離を置いて見ていたように思います。

一方で、組織として売上・利益目標の達成は厳しく求められます。寝ても覚めても仕事のことばかり考える日々が続き、精神的にはかなり追い詰められていました。

そんなある金曜日の夜のことです。上司への業績報告を終え、残業をしていると、課長から電話がかかってきました。

「人見さん、まだ残業してはるんですか。みんな近くにいるんで、仕事を切り上げて来てくださいよ。待ってますよ」

誰が見ても、自分は頼りない上司だったと思います。ですから私は、「きっと吊し上げられるのだろう」と覚悟し、暗い気持ちで居酒屋へ向かいました。

店に入ると、営業メンバー約30人が勢ぞろいしていました。座敷の中央には一つだけ席が空いており、そこに座るよう促されました。「やはりそうか」と思い、小さくなって座っていると、右隣にいた最古参の部長が笑顔でこう言ってくれたのです。

「人見さん。人見さんは神輿に乗ってください。私らが神輿を精いっぱい担ぐから、人見さんは安心して、どんと構えていてください。それでいいんです」

私は一瞬、何を言われたのか分かりませんでした。戸惑っていると、その部長が目を見開き、皆に向かって大きな声で、

「なあ、みんな。ええな。人見さんを担ぐでえ」

と呼びかけました。すると、皆が一斉に「おおっ」と応え、高々とビールジョッキを掲げて乾杯してくれたのです。

状況をすぐにはのみ込めず、私はしばらく呆然としていました。しかし、メンバーたちの話を聞いているうちに、「この人は腰掛けではなく、本気でやろうとしている」と、もがく私を認めてくれたのだと感じました。それまでの毎日は本当に苦しいものでしたから、その時ばかりは感極まり、思わず涙がこぼれました。

私を呼ぶ前に、音頭を取ってくれたその部長が中心となって、営業メンバーにいろいろと話をしてくれていたのだと思います。私は今でも、この部長に深く感謝しています。その後、関西支社は予算達成率で全社1位を達成しました。この時に共に戦ってくれたメンバー、そして大変よくしてくださった得意先の皆さまには、今でも感謝の気持ちでいっぱいです。

回り道をして、やはり人事が天職だと気づいた

 50歳を目前に控え、私はこの先の人生について改めて考えるようになりました。3年間営業の仕事に携わって分かったのは、営業一筋で長く経験を積んできた人にはかなわない、ということでした。もちろん私なりに努力はしましたが、営業にとって重要な人脈や知識の厚みという点では、到底及びませんでした。

K社には「天職(天から与えられた職業)」という言葉があります。自らの意思で人事を離れ、広報や営業を経験したからこそ、私はようやく、人事こそが自分の天職なのだと気づくことができました。それは49歳の時でした。

その後、私は3社目となるM社へ、人事として転職しました。M社での経験は、私にとって大きな転換点となりました。

私は中学時代、野球部の厳しい上下関係の中で過ごしたこともあり、「1歳上は偉い」という年功序列的な価値観をどこかで持ち続けていました。しかしM社では、8歳年下の上司のもとで働くことになり、自分自身の考え方を見つめ直すことになりました。

その上司は、人間性が本当に素晴らしい方でした。年齢の上下にこだわっていた自分が、恥ずかしく思えたほどです。また、同僚のM下さんからは、採用に携わる者が決して忘れてはならない「採用するということは、その学生の人生に責任を持つことだ」という教訓を、改めて深く教えられました。

M社からの転職を考え始めていた頃、20年来の友人と久しぶりに食事をしたことがきっかけとなり、私はカルビーに入社することができました。この友人には、今でも心から感謝しています。

最後に

 私にとって東洋大学は、「世界を広げてくれた場所」であり、「自分に自信を与えてくれた場所」です。高校時代までの狭い世界から一歩踏み出し、サークル活動やアルバイトを通じて多くの人と出会い、さまざまな経験を重ねる中で、自分の視野を大きく広げることができました。

そうした経験は、社会に出てから挑戦や困難に向き合う力となり、今の私を形づくってくれています。母校のさらなる発展を願い、卒業生としてその名を誇りに思いながら、これからも社会に貢献していきたいと思います。

東洋大学で過ごした4年間は、私の人生における、かけがえのない宝物です。心から感謝しています。

3年前のレスマ忘年会にて。手前左がK泉君。一番奥が筆者

1990年
経営学部経営学科卒
人見 泰正

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