母校支援

目指すは俳句の美学!

2021年3月、長い晩学の学生生活を卒業し、主指導の谷地快一先生(俳文学)のお勧めで『正岡子規研究―中川四明を軸として』(笠間書院)を出版させて頂きました。毎年『東洋大学大学院紀要』に書き続けた論文を中心にまとめたものです。

ようやく完成に漕ぎつけ、筆者紹介を書きながらふと気が付くと東洋大学で学び始めてから休学も含め、およそ二十年が過ぎ八十歳代になっていることに改めて驚きました。

幸い著書は思いもかけず、この度「第36回俳人協会評論賞」受賞のお知らせを頂きました。俳句を始めて以来、遠い雲の上にある憧れとして見上げていたこの賞を受賞する日が来るとは想像もできませんでした。本当に夢のようです。今回は家族がくれた学びの機会と俳句の研究を始めたきっかけについて書いてみたいと思います。

高校卒業後は就職。父とともに弟の大学生活を支えることに

私が高校を卒業した昭和30年代、朝ドラで放映された「おかえりモネ」の、宮城県登米(とめ)地方の山村では、大学に進学する女子は少なく、私も東京に出て働きたいと思っていました。

我が家は父母とも教員でしたが、終戦後復員し教師に復帰した父の給料は安く、物価の上昇も激しい時代でした。母は寝たきりの舅・姑女二人の介護で復職はかなわず、毎日釣瓶井戸の水を汲み、手を真っ赤にして洗濯をしていました。そうした環境の中で父母の悲願は、私よりも一歳下で長男の弟だけは何としても東北大学を卒業させることでした。

授業料を父が工面し、一足先に仙台に出て就職していた私は長女の役割として弟の食住を担い、仕送りのない弟を支えました。弟もアルバイトをしながら学生生活を過ごし、卒業論文を仕上げ、就職の内定もいただきました。この時は、私自身に役割を果たしたという気持ちが重なって、本当に嬉しかったことを思い出します。その後、私も結婚し、夫の会社の社宅で東京、横浜に住みながら三人の子供を育てました。

東洋大学で学ぶきっかけは娘の一言でした

子供たちの手が離れた頃、何か資格でもと思い「宅地建物取引主任者」の免許を取得するために勉強を始めます。引っかけ問題や民法など頭を悩ます内容もありましたが、三回目の受験で合格。50歳から戸建住宅やマンション販売の仕事をしながら、広島に単身赴任していた夫と、高齢になった両親のもとに交互に通う生活でした。

忙しい日々を過ごす中、大学の卒業を間近に控えた末の娘がある時「卒業したら働くから今度はお母さんが大学に行けば」と言ってくれたのです。正直、心がぐらりと動きました。娘は私が「最も遠くて届かない夢は大学かも」とつぶやいたのを覚えていたのです。しかし子供たちの受験を見てきた私は「受験はとても無理」と答えると、「通信教育もあるから『宅建』くらい時間をかけて勉強すれば短大卒の資格はとれるかもよ」という思いがけない提案でした。

憧れながら人生の遠い夢として諦めていた大学での勉強に手が届くかも知れないというドキドキ感を抑えることができず、早速各大学の資料を取り寄せて読み進めますが、どれも魅力的な内容ばかりです。

中でも東洋大学で「俳文学」を教えている谷地快一先生の授業内容に目が離せなくなりました。実は、郷里では父が旧制中学の文学仲間と立ち上げた「柳絮句会」があり、私も小学生の頃から俳句は身近な存在だったからです。

念願の学生生活がスタート!

晩学の始まりは61歳。東洋大学の通信教育課程でした。学生生活は楽しく自由な時間に学ぶことができ、自分がこんなに読み書きが好きだとは驚きの発見でした。4年間はあっという間に過ぎ、5年目に谷地先生のご指導で「芭蕉発句研究―花の季題をめぐって」で季語の縦題、横題について卒業論文を書きました。

その後の数年間は高齢の父母の二人暮らしが心配で、遠距離介護に力を入れるために科目等履修生になりました。日増しに記憶の衰える母と接するようになりますが、ふと、あることに気がつきました。娘の私の顔も忘れる母がなぜか俳句の話だけは生き生きとしているのです。

そういう母の姿を見るたびに、俳句とは何か、を学びたいと思い始め、社会人枠で入学試験を受けることを決心し、大学院に入学しました。谷地先生に主査をお願いし、研究テーマを「子規の見直し」に決めたのです。

そしてその方法として、子規とも陸羯南とも親しい京都の俳人中川四明の研究をすることになりました。しかし四明についての先行研究が思うように見つかりません。ある日のこと、東洋大学図書館でいつものように資料を探していると「小日本」という新聞にたまたま目が止まります。

「小日本」は子規の恩人で知られる陸羯南が発行した新聞「日本」が発行停止処分になったとき、子規を編集責任者として発行されたものですが、これに創刊号から隔日で「貴公子遠征」という航海小説を連載している「霞城山人」が中川四明であることをこの時に発見したのです。見つけた瞬間、ひらめくものがあり、感情が昂ぶり子規と四明について書けると確信に至ったのです。そして私の研究生活はここから始まりました。

正岡子規像(愛媛県松山市)

俳句がいつまでも残ることを願った四明

子規の人生を見るとき、この「小日本」の経験が大きなものであったことを「日本」編集長の古島一雄が伝えています。「君の一生は概して不幸であったが若し其中に於いて得意時代なるものがあつたとすればこの時こそ先ず得意の時代であつたと言わねばならぬ」(「回想の子規」)。

四明はこの子規の短い「得意の時代」を支え、その革新に寄り添い、俳句の未来の継続を願って虚子を呼び戻す役割を担いました。今後の私は四明の「不離不即」に学び、更に、俳句の美学に迫りたいと考えています。

最後になりましたが、東洋大学大学院入学以来、主査の谷地快一先生とともに長年ご指導いただいた、副査で漱石がご専門の山崎甲一先生、また「万葉集」の菊地義裕先生、歌人で前田夕暮がご専門の山田吉郎先生にも心から感謝申し上げます。

著書彩々

著書彩々では、書籍のご紹介の他、著者おすすめの子規と四明の句を解説付きでご紹介しています。校友会のためだけに寄稿いただいた特別解説です!是非ご覧ください。著書彩々はこちら

参考>画像説明(モノクロ)

中川四明の肖像
清水貞夫「俳人四明覚書七」(現代文藝社・平成31年3月1日)

京都絵専7回卒業記念
清水貞夫 「四明中川重麗の美学」(現代文藝社・平成29年4月)

展覧会場での四明
清水貞夫「俳人四明覚書五」(現代文藝社・平成23年10月1日)

2021年3月
東洋大学大学院文学研究科
国文学専攻博士後期課程満期退学
根本文子
公益社団法人 俳人協会・俳句文学館ホームページ
https://www.haijinkyokai.jp/index.html

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